「ありのままに」 マタイ5:13-16
「アナと雪の女王」の主題歌を、高橋知伽江さんという人が訳しました。それは「ありのままで」という題になっています。もともとの英語では、LET IT GOです。歌詞の一部が「ありのままの姿見せるのよ、ありのままの自分になるの、ありのままで空へ風に乗って、ありのままで飛び出してみるの、二度と涙は流さないわ」、となっていて、束縛されていた雪の女王エルサの心が解放されていく心境が実によく表現されています。
わたしたちの心境も同じかもしれません。ステイ・ホームなどの状況もあって、束縛を受けているわけです。
イザヤ書58章は「神に従う道」という題になっていて、形式的な断食ではなく、人々の束縛を解放し、助けを惜しまないことを神は望んでいると書かれています。形式的な宗教行為とは外面だけで、ありのままではないわけです。
そこで、福音書の日課、マタイ5:13を見ましょう。ここの部分は、「あなた方は幸いである」という山上の垂訓の結論にあたります。そこには、わたしたちが地の塩であると書いてあります。塩ほど当たり前に思われていながら、重要なものはないでしょう。スイカに塩をかけて食べる人がいます。あれは、最近の脳科学では有効性が証明されているようです。塩と砂糖とは味を伝える系統が違うので、混じることはなく、塩の味によって、甘さがさらに強調されるそうです。また、古代ヨーロッパで、塩は価値ある物とみなされていました。サラリー(賃金)という言葉は、ソルト(塩)から来ていて、塩で給料を支払う習慣があったからです。イエス様は塩について語って、大切なものが人間の心の内側にあると指摘します。だから、幸いなのです。つまり、あなたの外ではなく、内側に重要な塩がある。いや、ありのままの、あなた自身こそ塩なのだと告げたのです。悩み多き群衆に向かって、「あなた方自身が塩のように価値ある人々である」と宣言したわけです。
語られた本人は、「えっ?塩とは誰のことですか。わたしですか?」と驚いたことでしょう。これは「あなたはダイヤモンドだ」と言われたのと同じです。
人間は自分が変わって価値あるものにならなければ神に愛されない、人々から敬われない、と思いがちです。もうすぐ冬期オリンピックですが、オリンピックでも金メダルでなく、8位入賞ではダメなわけです。しかし、このイエス様の宣言には、義認論が隠されています。義認論とは、イエス様の十字架の犠牲によって、正しくない者が、「ありのままで」、正しい者として見なされることだからです。この「ありのまま」宣言にキリスト教の福音概念が全部網羅されていると言ってもおかしくないでしょう。キリスト教は道徳宗教でも、金メダル宗教でも、幸福宗教でもありません。罪人が「ありのまま」で救われる宗教です。
さて、塩の使用についてはある学者がこう述べています。「塩はまわりのものに味をつけるのです。けれども塩が、味をつけるのは、塩自体が、自分の正体をなくした時だけです。」食べ物のなかに塩の塊が入っていたら塩辛いだけです。つまり、自分の従来の信仰、生活態度さえ捨てる、それが塩となることなのです。捨てることです。それは他者を生かすことです。あなた方は、神に愛された者として、自分を捨てて他者を生かす者であるとイエス様は宣言したのです。ただ、それには追加説明がついています。13節には「塩に塩気がなくなる」と書いてありますが、原語では「愚か者になる、汚染されて効力を失う」という意味です。汚染され、価値なきものになってしまう場合があるとイエス様は教えたのです。
光も同じです。光も光自体が、自分の正体をなくした時に光が当たったものを輝かせるのです。これは科学的にも本当です。物は原子とか分子でできていますが、原子とか分子にもともと色はありません。真っ黒な世界です。しかし、それに光が当たると、反射して輝くのです。全部反射する物質は白く見えます。光を反射しないで全部吸収してしまう物質は黒く見えます。緑に見える物も、その物質が緑色なのではなく、赤とか青の色は吸収されて、緑だけ反射されるから、緑に見える訳です。
ですから、イエス様が群衆に「あなた方は世の光だ」と言ったのは、イエス様を信じ、人に命を与え、他者を生かす者となりなさいという意味です。
形式的な外面ではなく、神様が内側を塩として清めて下さること。わたしたちの行動や外側の虚栄ではなく、神が創造された「ありのまま」のわたしたちの体や、性格や、存在自体を、塩であり光であると認めてくださること。ここに神の絶対愛があります。ですから、あなた方は地の塩である、世の光であるというのは、わたしたち被造物に対する神の側からの愛の宣言であるわけです。天地創造の始めに、闇が世界を覆っていた時に、神が、光あれと宣言したら、光が現れたのと同じだと思います。闇が覆うというのは、束縛の状態ですが、イエス・キリストは人々を自由にします。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇のなかを歩かず、命の光を持つ。」(ヨハネ8:12)「真理はあなたたちを自由にする。」(ヨハネ8:32)
「光を輝かせなさい」、という部分をある学者が解釈して、「信仰者の心の中に生きて働く、光である救い主をあらわす」ことだと言っています。信仰者が光なのではありません。信じる者が、「ありのまま」の自分の心の闇、つまり罪を自覚すればするほど、その底辺に光なるキリストが輝くのだという逆説です。罪の束縛から逃げようともがくのではなく、束縛の根底に既に救いが到来し、内側から自由にされることを信じるのです。「光を輝かせなさい」とは努力しなさいの意味ではなく、到来したキリストを妨げず、「ありのまま」に感謝しなさいということです。
それは罪ある者が、キリストの十字架の贖いを信じることによって、ありのままで、心の中に、塩と光を受け取る聖なる者(セイント)とされるという意味です。「今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。」(ローマ8:2)と書いてあるとおりです。「アナと雪の女王」の歌詞のように「ありのままの姿見せるのよ、ありのままの自分になる」、ということは時には苦しいこともあります、しかし、そこにこそ、地の塩であり世の光である救い主イエス・キリストが宿り、わたしたちを自由にしてくださるのです。