印西インターネット教会

時間に於いて不可能はない

やっと梅の林の剪定が終わりました。約500坪くらいの土地に50本ほどの梅の木が植えられています。昔からのことわざで、「桜切る馬鹿、梅切らぬ馬鹿」と言われているように、梅の木はかなりの強剪定をしても枯れませんし、むしろ、切り口からたくさんの短果枝がでて、たくさん実をつけます。それにしても、一本の木だけで数十分かかれますので時間は永遠に流れていくように感じました。それだけではありません。剪定の前には、樹木下の枯れた雑草を草刈り機で処分しなければなりませんし、剪定後も切った枝を集めて処分しなければなりません。これにも長い時間がかかります。しかし、「時間に於いて不可能はない」という言葉をインターネットで学びました。これは外国のユーチューブの動画の中で語られていた言葉です。これを話した人は、たった一人で木を伐採し、製材し、ログハウスを建てました。重い木材を屋根の高さまでクレーンなどを使わずに持ち上げる事が出来るのかは疑問でしたが、やはり方法があるのですね。その工程を見ていて、ある日本の起業家が「おちょこ一杯の水でも継続すればプールを満たすことができる」と書いていたのを思い出しました。また、大分県の教会で働いていたころに、耶馬渓の青の洞門を見に行ったことがあります。これは江戸時代に禅海和尚が地元の人々が危険な崖の上を通らなくてもいいように、崖の中に30年かけて手掘りのトンネルを掘った場所です。これも、「時間に於いて不可能はない」という事ではないでしょうか。わたしたちは、あまりに多くのタスクに意気消沈してしまいますが、「時間に於いて不可能はない」のです。おちょこの水に似ていますが、わたしの子供の頃に、ある家の軒下の石が屋根から落ちる雨水でえぐられて窪んでいるのをみて感動した記憶もあります。あの水でさえ、時間をかければ、固い石の面を削ることもできるのです。この点では、聖書も同じ事を言っています。「愛する人たち、このことだけは忘れないでほしい。主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです。」(第二ペトロ3章8節以下)時間とは、創造主のもとにあって、相対的なものなのです。ノアが一人で箱舟を作った時も同じでしょう。禅海和尚の慈愛に満ちた作業も、30年が過ぎてみれば一日のようだったことでしょう。現在は、コロナ禍で苦労が多い時ですが、それでも「時間に於いて不可能はない」という真理にはかわりがありませんので、神に希望を託して努力を続けましょう。

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