印西インターネット教会

弱さにも深い意味があることを知る説教

「ちいろば物語」        マルコ11:1-11

榎本保郎という牧師がいました。戦後、幅員して同志社大学の神学部で学び、在学中に伝道し京都世光教会をたてた人です。その後、日本基督教団の今治教会に赴任し、そこで毎週、週報に書いていたものが「ちいろば」という自伝で出版されたのです。自分をイエス様が乗られたちいさなロバにたとえたものです。ある面では、わたしたちすべてもイエス様をお乗せするロバではないでしょうか。

イエス様の一行はオリブ山の上にあるベトファゲとベタニアの近くにいきました。その前には彼らはエリコにいました。これはオリブ山からは30キロくらい離れたところにある町です。また、エリコからオリブ山までの標高差は約千メートルもあります。一日で行くにはきつい旅です。そして、このベタニアは、イエス様の弟子であったマルタ、マリアそしてラザロという兄弟たちが住んでいたところでした。ちなみに、ベタニアの名前は、悩む者の家、あるいは貧しい者の家という意味があるそうです。エルサレム郊外の貧しい地域だったわけです。また、ベタニアにはラザロが蘇った墓が今も残されています。そこを出てエルサレムに向かって少し行くと、イエス様が小さなロバに乗ったベトファゲという場所です。わたしがエルサレムに住んでいたとき、ゲッセマネの園のほうから坂道を登ってベタニアに行ったことがありますが、それは埃っぽい普通の田舎の集落でした。ところが、現在はイスラエルとパレスチナを分断する長く巨大な壁でベトファゲとベタニアは分断されているようです。残念なことですね。

それはともかく、イエス様の一行はエリコから坂道を登ってオリブ山をこえ、そのままエルサレムに入ったのではなく、マルタ、マリア、ラザロが住んでいるベタニアで休息をとったようです。実際に、ヨハネ福音書にある並行記事を読んでみますと、イエス様の一行はラザロの家で一泊し夕食をとったと書いてあります。その時に、マリアは300万円もするようなナルドの香油をイエス様の足に塗り、十字架の死の準備としました。イエス様を裏切ったユダはその様子を見て、なんて無駄なことをするのだと腹を立てました。(これが裏切りの一つの原因となったわけです。)そして、その翌日に、イエス様は途中のベトファゲでロバに乗ったのです。疲れてロバに乗ったわけでもありません。そして、前の夜の香油の件の時も、イエス様は、「わたしの葬りの日のための香油だ」とおっしゃっています。まさに死を意識した決死の気持ちで子ロバに乗られたわけです。

今年のイースターは4月17日ですが、その前には、イエス様の十字架への歩みが記されている聖書箇所が読まれます。今回もその一部でもあります。

しかし、当時の人々は、それから起ころうとしていることを誰も知りませんでした。このように、神の働きは人間の目にはなかなか見えないものです。死といえば、残念ですが最近中国であった飛行機墜落事故の犠牲になった人々にとっても、死は突然のことだったでしょう。しかし、イエス様には違いました。先に述べたベタニアでの香油の件でも、その時点で既に、イエス様は十字架の死を確実に予知しておられたのです。イエス様の心の中には家族や弟子たちと別れなければいけないつらい思いもあったでしょう。しかし、それだけではなかったと思います。イエス様は「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ一粒のままである。だが、死ねば多くの実を結ぶ」(ヨハネ12:24)と教えたことがあります。ですから、人類の原罪の解決としての十字架の犠牲的死が、神の栄光をあらわすと知っていたのです。それは、聖書の預言に基づくものでした。(余談になりますが、黙示録に書かれている世の終わりのしるしであるニガヨモギとは、ロシア語でチェルノブイリです。また、コロナ禍もウクライナ侵略戦争も聖書には預言されています。)

子ロバに乗ったイエス様がエルサレムに向かった距離は、2キロか3キロ程度に過ぎませんでした。多くの人びとは、ガリラヤ出身の奇跡の人であったイエス様を熱狂的に迎えました。しかし、イエス様自身はこのように熱狂している人が、数日後には凶暴な暴徒となって自分を苦しめることを予知していました。イエス様は、人間の罪を知っていたからです。人間の罪とは、利益のためには熱狂し、神殿が冒涜されたと激怒する、そういう自己中心性にあります。そして、それを贖うには、自己中心性の反対である非自己中心性、つまり、絶対愛に根差した十字架上の贖罪の死しかないことを知っていました。利益を手放そうとしない人間に手放せと言っても無駄なのです。その人間のために、他者が犠牲を払わなければ、その人は救われないのです。もしかしたら、わたしたちの現在があるのも、スモール・スケールで家族や周囲の人々が犠牲を払ってくれたおかげではないでしょうか。その逆に、周囲から見捨てられた人は凶悪犯罪にはしる例もあります。その人が悪いのではなく、その人を助けてくれる人がいなかったのです。

さて、マルコ福音書でも、イエス様は自分が受けるべき盃(苦難)について既に知っていたと語られています。盃は、旧約聖書では運命のしるしです。詩篇16:5に「主はわたしの盃、わたしの運命を支える方」と書いてあります。また、盃は、罪に対する神からの罰の象徴です。イザヤ51:17に「主の手から憤りの盃を飲み」と書いてあります。それはイエス様が罰としての神の怒りをうけて、死ぬ覚悟だったことをあらわします。このイエス様の気持ちを、別の言葉で言い表すと、「必死で、釈迦力で、一心不乱に、捨て身の覚悟で、背水の陣で、不退転の覚悟で」、などになるでしょう。日本語にはこういう語彙が豊富です。日本人の気性としては、こうした真摯さがあることは忘れてはならないでしょう。だから、イエス様の気持ちもわかるはずです。小さなロバに乗って、ベタニアからエルサレム市内に下っていったときのイエス様の心情はこれだったでしょう。

一方、ロバは平和の象徴でした。日課であるゼカリヤ書はもちろん、詩編147:10には「主は馬の勇ましさを喜ばれない、人の足の早さを望まれるのでもない」「主が望むのは主を畏れる人、慈しみを待ち望む人」だと書いてあります。神の慈しみは、決して変わらない神の堅い決意をあらわします。つまり、子ロバに乗ったイエス様は、「必死で、釈迦力で、一心不乱に、捨て身の覚悟で、背水の陣で、不退転の覚悟で」エルサレムに向かい、預言書に告げられていた神の意志を体現したのです。ここでの神の意思とは、罪なき者が罪ある者のために命を捧げるという無条件的・絶対愛の実現です。相手が良い人だから助けるというのは、条件愛にすぎません。

イエス様は、何故、立派な馬ではなくロバに乗ったのでしょうか。何故、勝利ではなく敗北なのでしょうか。成功ではなく失敗なのでしょうか。何故、命ではなく死なのでしょうか。皆さんはどう思いますか。それは何故なら、罪とは、前述したように、自己栄光化、自己保身、自己利益追求だからです。救いとは神の子である方が、十字架上で犯罪者として釘うたれ、他者のために悲惨な死を遂げるところに、子羊の血によって罪を滅ぼすという過越しの意味(これも預言です)が具現するのです。

イエス様はロバに乗ることで、犠牲による救いの方向性を示しました。これは、仏教などの自己努力による救いとは対極的なものです。神の聖者が殉教の死を遂げて、無力なわたしたちを助けることにしか、救いの達成はなかったからです。そのとき、多くの人々は、8節にあるように、道に服を敷いたり、ヤシのような葉を敷いて歓声をあげました。彼らの叫びは、ホサナ、ホサナでした。それは王の即位のしるしでした。また、服を敷くのは服従のしるしでもありました。でも、このロバに乗る王は全人類の罪の贖いのために、命をささげる王でした。「キリストは神の身分でありながら、それに固執せず、かえって自分を無にした」とフィリピ書2:6以下に書いてある通りです。

本当の救いの実現をわたしたちはつかまなければいけません。わたしたちを、この十字架上のキリストの不退転の愛、固い決意から引き離すことはだれにもできないと知ることが大切です。わたしたちはある面でロバのような存在です。ロバという動物は、ユダヤ人の間では決して尊重されている動物ではなかったそうです。神にささげるのにふさわしくない動物です。「ちいろば」の榎本保郎先生は、この神にふさわしくない自分を実感されたのです。しかし、イエス様が選んだのはそういう神にふさわしくない「ちいろば」の人々でした。「ビッグボス」のようなメインな人々ではなく、無価値な人々です。大より小、これが聖書に一貫した思想です。

一つの例話ですが、ある女の子は自分の無価値観に苦しんでいました。リストカットを繰り返していました。まあ、これは自殺願望といえるでしょう。しかし、この女の子がある時ボランティアで行った老人ホームで、排便に失敗した痴呆症の老婆の世話をしました。そしたら、老婆が彼女の腕の傷を見て、泣いたそうです。彼女の痛みがわかったのですね。その弱い老婆の涙に、これまで弱さに悩んできた女の子はどんな励ましよりも温かい慰めを感じたそうです。イエス様の十字架も同じです。弱さによる弱さの癒しです。悲しみによる悲しみの癒しです。死による死の癒しです。

ロバは卑しい生き物で、卑下されていました。しかし、ロバはイエス様を幸せにしました。弱いわたしたちも、小さなロバとしての誰か人を幸せにして生きていけたら素晴らしいことです。イエス様は弱いものを選んで下さるのです。弱さに悩むわたしたちすべての人生もイエス様をお乗せするロバの物語ではないでしょうか。イエス様のように立派になれなくてもいいのです。弱いものが弱いままで、主が用いて下さるのです。「ちいろば」として、イエス様をお運びするロバとして、わたしたちも励んでいきましょう。

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