「さらば友よ」 ヨハネ16:4b-11
イエス様は言いました、「わたしが去っていくことは、あなたがたのためになる。わたしが去っていかなければ弁護者はあなたがたのところにこない。」去っていくことは悲しいことです。弟子たちは悲しかったと思います。わたしたちの生活でも、去っていく場面の一つは卒業式ではないでしょうか。「あおげばとおとし」とか「蛍の光」などを歌うと、ジーンと胸に響いて目には涙がうかんだものです。特に山奥の村や小さな島にある学校などでは、関係が密であるがゆえに、別離は辛いものでしょう。小学校6年間も、中学校3年間も同じクラスのメンバーで同じ先生に学んだ者同士が、卒業して離れた町の高校に行ったり、就職したりすることで、もうあまり会えなくなります。そんなときに、悲しく思わない人はいないはずです。親しければ親しいほど悲しいものです。
実は、イエス様の弟子たちも同じ経験をしました。彼らは、自分たちの仕事も捨て、イエス様と一緒に3年間を過ごし、伝道の旅路を共にしていたからです。小学校の場合には、一日6時間ほど一緒に過ごすとして、6年間では9千時間です。イエス様の弟子たちの場合には、一日24時間一緒に過ごしたわけですから、腰痛の時間は何と、2万6千時間になります。この数字を見るだけで、イエス様と弟子たちの親密な関係を創造することができます。
そんな彼らにとって、イエス様が十字架につけられて殺されたのは、耐えがたい悲しみだったに違いありません。でも、3日後に復活されたときには悲しみが喜びにかわりました。ところが、せっかく復活されて弟子たちを励ましてくれたイエス様は、天の神様のところに昇っていくから、もう会えないと言われたのです。これは、ショックだったと思います。せっかく再会できたイエス様とまた別れなければならなかった弟子たちは、最初の別れの時以上に悲しかったと思います。イエス様もそのことは知っていました。
ところが、悲しいだけではなく、イエス様は、弁護者(これはパラクレートスというギリシア語であり、助け主という意味もある)という名前の聖霊を送るから安心しなさいと諭したのです。
アメリカの映画で「ホーム・アローン」というのがありました。これは、親が泊りがけの旅行に行ってしまい、一人で留守番する少年のお話です。ドロボーが来たりして怖い体験をするわけです。そのときに近所の人も助けてくれましたが、最初から助けがあったら、どんなに安心だったことでしょうか。では、子供ではなく大人の場合はどうでしょうか。一人で留守番でもそんなに怖くはないはずです。しかし、人生で、助けがなくても生活できるのでしょうか。水道管が破裂したらどうでしょうか。自分でパイプを交換できるでしょうか。髪が長くなったら自分で切れるでしょうか。病気になったら自分で治せるでしょうか。メガネが合わなくなったら、自分で調整できるでしょうか。自動車が壊れたら自分で修理できるでしょうか。学校に行かなくても自分で勉強できるでしょうか。
熊本の地震や東北の自身の時のように、大きな地震で家が壊れたら自分で修理できるでしょうか。教会に行かなくても、神様のことは自分で理解できるでしょうか。老人になって、ヘルパーや家族の助けなしに自分の力で暮らせるでしょうか。死ぬときには自分で自分のお葬式をできるでしょうか。無理です。絶対に無理です。
つまり、イエス様はそのことを言いたかったのです。弟子たちには、助け主なる聖霊が必要だったのです。弟子たちは、あのような迫害の世界で、自分だけを頼って生きていくことは絶対に無理だったのです。いや、外面的な迫害がなかったとしても、本当の意味で、悪魔のもたらす試練が多いこの世で、喜びをもって生きてい行くことは絶対できない、だから聖霊という助け手を送ると、イエス様は約束したのです。
人生には助け手が絶対必要です。人生の深い悲しみの際も同じではないでしょうか。悲しみから自分で簡単に抜け出すことはできません。人間の悲しみは、すでに幼児期に形成されています。最近、アメリカの有名なカントリー・シンガーのナオミ・ジャッドさんがピストル自殺しました。自殺の前に出たテレビ対話で、幼いころに性的暴行をうけて、うつ病の原因になってしまったと語っていました。古代の神学さであったアウグスチヌスなども、人間の心の深くには、何物によっても埋めることのできない、自分では抜け出すことのできない空洞があると言っています。わたしたちも、自殺までには至らないにしても、この闇の空洞にストレスを覚えることがあるはずです。そんな人生を、助け手なしに生きていくことは無理です。
イエス様はそういう状況を知って、助け手を送ると言ったわけです。イエス様が弟子たちを神の絶対愛で愛しているから、彼らを絶対に一人にはしないと言われたのです。あなたは自分の問題を自分で解決しなさい、と突き放すことはないのです。わたしはここを去らなくてはいけないが、必ず助け手、ヘルパーを送ってあなたを悲しみから引き上げるから安心して生きて生きなさいと励まされたのです。
そしてその約束通り、聖霊がきました。それまで各自の考えがバラバラだった弟子たちが、聖霊を受けて一つの思いになりました。そして教会ができたのです。イエス様の十字架の悲しみから、復活の喜びに弟子たちが目覚めたのです。悲しみの人々が聖霊降臨を通して、喜びの人々に変わっていったのです。ちなみに、聖霊降臨とはペンテコステですが、ペンタが5で、ペンテコステが50の意味です。イエス様が十字架にかけられ、三日目に復活した出来事のあと50日して、聖霊が降り、弟子たちは、この日を境に神のみ言葉が理解できるようになったのです。それまで弟子たちは本当のことを「何一つわからなかった」と書いてあります(ヨハネ14:26参照)。わたしたちも、自分がイエス様と同じように「侮辱され、乱暴な仕打ちをうけ、唾をかけられ、鞭うたれて殺される」ようなことがあったとしても、なかなか理解できないものです。
例えば、べートーヴエンは、政治的にも危険人物と考えられたことがありました。宗教的にも公に教会を批判する者として、目をつけられていました。今では、楽聖として崇められていますが、彼の時代には危険人物としても見られたわけです。それは、従来のキリスト教の在り方を疑い、古いものと戦う人だったからです。彼は53歳で「第九」を完成しましたが、それは「古いものとの戦い」の曲だったと言われています。聖書では、聖霊が働くときすべてが新しくなるとよく書かれています。その面ではべートーヴエンも聖霊の人だったと言えるでしょう。
聖霊降臨によって、イエス様の弟子たちも、弁護者を送っていただき、自分たちの弱さを克服し、神の義に生きるとは自分が正しい人になろうとするのではなく、神が変えてくださるのだと知り、不公平に見える世の中でも、必ず神さまが公平にさばいてくださることを自覚し、おおいに反省し、自分の古い殻から抜け出させていただき、新しく生まれ変わっていったのです。これは確かなことです。何故そう言えるかというと、わたし自身も聖霊の助けによって、日々新しく生まれ変わらせていただいているからです。
また、キリスト教は個人主義の宗教ではありません。山奥の村や、小さな島にある学校の生徒のように助け合っていく宗教です。印西インターネット教会も、眼には見えないパソコンの信号によって結ばれている、現代の聖霊の働きの一つです。携帯も電気信号で成り立っていますが、その音声や画像に励まされた方も多いと思います。要するに、人間は様々な方法で、神の助けを受けることができるのです。天に去っていく際のイエス様は、「あなたのために、わたしが苦しんだからあなたは苦しまなくていい。わたしが死んだから、あなたは死ななくていい」という尊いメッセージを残しました。これも聖霊の働きです。
聖霊降臨によって、それまでの水の洗礼を受けた者は、新しく聖霊の洗礼を受けて勇気あるものとされました。そして聖霊によって誕生した教会は「この世」で大きな使命を持っています。悲しみの谷底から救い出された人は、悲しみに沈む人を救うことが出来るのです。死から復活された方は、死に怯える人に命を与えることが出来るのです。そして、多くの人々の人生を、悲しみと恐れから喜びへと変えることができるのです。だからこそ、聖霊の実は、「喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」ガラテヤ5:22、と書いてあるのです。それは、努力の結果ではなく、聖霊による癒しの結果なのです。