印西インターネット教会

昨日は一日に441件のアクセスがありました。

今までも400件台の訪問は在りましたが、一昨年の5月30日に印西インターネット教会を開設してから、一日のアクセスとしては最高でした。記事を見て下さっているのは嬉しいことですが、それが皆さんの人生を少しでも生きやすいものになる手助けになれば幸いです。また、聖書の言葉というのは、新約聖書の方が約2千年前に書かれ、旧約聖書の方はさらに古く、3千年近く前のものです。出エジプト記などを読むと、エジプトの国王ラメセス二世のことなども出ていますので、これは3250年前の記録となります。また、創世記のバベルの塔の話や、ノアの箱舟の話などは、さらに古い歴史的出来事を素材としていると思われます。要するに、聖書というのは、人類始まって以来の最も古い文章であるわけです。ですから、聖書考古学という研究分野もあるくらいです。そして、聖書はただ古いだけではなく、そこに、天から受けたさまざまなインスピレーションが記録されています。ですから、単なる歴史書でもないわけです。こうした複雑な背景をもった聖書を解読するには、それなりの学問が必要となります。それなしに、古代文献を現代の感覚で読もうとすると、誤解を生むこともあるでしょう。ですから、この印西インターネット教会では、わたしがアメリカやイスラエルで学んだ知識を基にして、一般の日本人にわかりやすいかたちで、聖書の内容を伝えようとしています。歴史上では、眼に見える教会がその務めを負ってきましたが、自己批判的に見るならば、それが政治勢力と結びついたり、豪華な建物を建造することが目的になったり、最悪の場合には宗教戦争などを派生させたりして来ています。これは、イエス様がサマリアの女性に「あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時がくる。」(ヨハネ福音書4章21節)と述べた事の反対事例です。なぜなら、誰もが特定の場所や宗派や国家を主張するがゆえに争いが起こったのです。それだけではなく、現代の教会にも大教会や弱小教会があり、プライドや劣等感から、本当の意味では自由でありません。宗教は自己顕示欲の手段になってしまう危険もあるのです。それならば、仏教の種田山頭火のような無欲な生き方をしたほうがズッとましかもしれません。イエス様こそ山頭火のように、教会を持たず、定住地を持たず、本当の意味で自由に活動した方だったからです。イエス様が、サマリアの女性に「この山」と言われた場所にわたしは登ったことがあります。そこは、サマリア人の聖地で、ゲリジム山という場所です。ユダヤ人はエルサレムを聖地としていましたが、サマリアの聖地の方が歴史的には古い場所でした。そんなこんなで、当時の人々も、エルサレムがいい、サマリアのゲリジム山がいいなどと、言い争っていたわけです。そこに、鉄槌を打ったのはイエス様の言葉でした。なんだか、胸のつかえがスッとするような言葉です。あそこがいい、ここがいいという、地上の人間的価値の否定だからです。天地創造の神においては、特定の聖地などはない。そう、言い切っているようにみえます。場所ではなく、礼拝の心が存在する所が聖地なのだ。そういう意味に聞こえます。そこで、昔の映画の一場面を思いだします。それは、「炎のランナー」という映画で、エリック・リデルという実在のオリンピック選手のことを描いたものです。エリックのお父さんは宣教師でしたが、エリックが若いころ、お父さんは台所でジャガイモを剝きながら、「このようにはたらきながらも神を崇める事が出来る」とエリックに言いました。そして、その教えが心に残ったのでしょうか、100メートル走者のエリックは、予選が日曜日にかかったので出場を拒否して礼拝を第一にしました。彼の母国のイギリスでは、これに対して大変な非難がまきおこりました。しかし、400メートル競技にでるように友人が都合してくれて、なんと、その競技で優勝したのです。彼は非国民状態から、国の英雄、また信仰のヒーローとして称賛されることになりました。皮肉なものです。しかし、オリンピックの騒ぎも終わってから、エリックはお父さんと同じように、中国に宣教師として赴き、そこで良い働きをして、現地の人に惜しまれながら死にました。今でも、エリック・リデルを記念する石碑が中国にあるそうです。このエリックにとっても、礼拝の場所は、台所であり、オリンピックの400メートルトラックであり、遠い中国という国だったでしょう。また、エリックだけではなく、ナイチンゲールやヘレンケラーなど、多くのクリスチャンが、それぞれの与えられた場所で礼拝し、神に仕えたという事は、イエス様の言葉がまさに将来への預言だったという事ではないでしょうか。千葉県の印西市でわたしが発信している教会のメッセージも同じです。それが日本各地で、神を崇めることに結びつけば、それこそ「あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時がくる」ということの実現なのです。441件のアクセスが実を結ぶといいなと思っています。

モバイルバージョンを終了