あばれる君の半生記を読みました。彼は福島県の白河市の出身だったんですね。白河市には一度だけ行ったことがあります。我が家の三男がお城好きで、東北の城巡りをした際に白河城も見に行ったからです。お笑い芸人のなかでも、独特な個性を持つのが、あばれる君です。その彼が、どのようにしてお笑い芸人になったかの記事は、とても興味のわくものでした。それはまさに、彼が語っている、「一歩一歩進めば、必ずゴールにたどり着く」ということではないでしょうか。それも、彼が高校時代には山岳部に所属し、自ら体験した思いが、文字に込められていると思いました。しかし、それにしても、人生の道は遠いものです。また、様々な危険や間違った道に進む誘惑もあるものです。おそらく、あばれる君一人では、この道を進んでいくことは不可能だったでしょう。自分だけで、どんなに「一歩一歩進めば、必ずゴールにたどり着く」と思って努力しても、他者の協力がなければ、これは不可能な旅路です。あばれる君の半生記を読んでも、そこにはお父さんの助言や、妻となった同窓生の、由香さんからの励ましがあったことがわかります。そして、一歩下がって見れば、それはあばれる君に与えられた神の道だともいえるのです。イエス・キリストは「私は道であり、真理であり、命である」(ヨハネ福音書14章6節)と語りました。これを解釈すると、人生の道にも、あばれる君にお父さんが「真剣にやっているのか」と尋ねたように、真剣な生き方に神の存在あらわされるといえるでしょう。また、その生き方は命である生命力を与え、それだけでなく、その人の生命力によって他者をも励ますことができます。それこそが神の働きです。神の存在は、決して遠いものではありません。神社やお寺や、教会に行かなければ、感じられないものでもありません。例えば、わたしの家にある外国のプラーク(聖書の言葉が入った飾り板)には「道」についての有名な言葉が刻まれています。そこにはこのように書かれています。ある人が夢の中で、自分の歩いてきた人生の道を、砂丘に残った足跡で回顧しました。すると、そこに二人分の足跡がありました。自分一人で頑張ってきたと思ったら、その人生はイエス様と共に歩んできた人生だったのです。しかし、道が険しい場所にさしかかると、もう一人の足跡は消えており、一人分しか残っていませんでした。その人は心の中でイエス様に尋ねました。「あの時、どうしてわたしを見捨てられたのですか。」イエス様は答えました、「見捨てたのではない。あの時はわたしがあなたを背負って歩いたから、足跡は一つなのだ。」おそらく、あばれる君の人生の道にも、文章にはとても書けない試練や苦しみ、失敗などがあったことでしょう。しかし、それでも周囲の人々の助けを通して、神は共に歩んでいてくださったわけです。そのことは、わたしたち一人一人の人生についても、「真理」なのではないでしょうか。この真理を知らないと、苦しみやストレスからなかなか解放されないものです。ですから、神が「一歩一歩進めば、必ずゴールにたどり着く」のを応援して下さっているのを自覚することが、幸せな人生なのだと思います。