使徒言行録17章1節–15節 文責 中川俊介
フィリピを無事に出たパウロの一行は西に向かい、テサロニケに着きました。「ここはピリピからは160キロメートルもある所です。」[1] この町の名は、テッサリアの勝利(ニケ)という意味です。それ以前には、温泉をあらわすテルメという名前だったようです。ローマ時代には重要な大都市であり、マケドニア州の首都でした。パウロたちは、ローマ帝国内に散在するユダヤ人を主な伝道の対象とし、大都市にあるユダヤ人会堂を訪れていました。おそらくは、ユダヤ人同士での情報伝達は意外に早く、フィリピでの出来事もテサロニケのユダヤ人は既に知っていたことでしょう。2節にあるようにパウロはユダヤ人の集会で議論しました。この議論は聖書の教えに関するもので、聖書の引用をしながら、各自が自分の考えの正当性を訴えたのでした。「英語の本文からパウロが議論好きの人間だったと判断するのは誤りである。」[2] 論証は争いではなく、もともと学者であるパウロにとっては当然の事だったでしょう。
議論の焦点は、3節に出ているメシアの定義でした。「引用された個所は、おそらく詩編2、16、110、イザヤ53、そしておそらく申命記21:23であっただろう。」[3] ユダヤ人は、もともとメシアの到来を認め、待望していました。しかし、それがガリラヤ出身の伝道者イエス様であるということには異論もあったでしょう。また、メシアの受難と復活という事も、違った理解をしていた人々もいたと思います。メシアを栄光化して考えていた人々は、違った聖書の引用をしたことでしょう。受難のメシアか、栄光のメシアか、これは意見の分かれる点です。こうした議論の結果、全員ではないが、ある人々はパウロの主張を信じて、彼らに従いました。「人々が救われるのは、いつでも神のみことばの正しい解き明かしがなされるときであるのは、このことからも明らかです。」[4] わたしたちの正しい聖書解釈について話してみましょう。
また、ユダヤ教に改宗していた異教徒たちからも信じる者がでました。「おもだった婦人たち」も信じたとありますが、その土地で位の高い女性たちの事でしょうか。聖書では、身分のことはあまり問題ではないと思いますが、これが社会的地位の事だとしたら、なぜわざわざ身分に触れたのかは疑問です。「そのことをルカが物語ったのは、このため使徒に反対するユダヤ人の激昂が高められたからにほかならない。」[5] つまり地域社会の重要人物の妻たちがキリスト教に転向したので彼らの怒りは頂点に達したというのです。
伝道が進む時に敵対勢力も台頭します。なぜなら、パウロの論争において、自分たちの無知を暴露されたものや、信仰ではなく物事を判断していたものたちは、一般信徒の前で面目を失ったに違いないからです。そこで謙虚にされるなら、信仰に基づいた行動ですが、本来は個人の虚栄や誤った知識によるものでしたから、どんな正論をとなえても憎しみを買うばかりでした。イエス様の宣教の際も同じでした。パウロも、その点では、イエス様の足跡に従ったと言えます。きっと、温厚派(自称:良い人間)の人々も、パウロを批判して、「そこまで相手を否定することはないでしょう」、というようなことは言ったでしょう。実に、純粋な福音の伝達は人々を二分するのです。福音の宿命ともいえるでしょう。
ここで反対派は議論で勝てないと思ってか、5節にあるように、ならず者を抱き込んで暴動に発展させました。最初は意見の違いにすぎなかったことが、ここでははっきりと悪魔の手先となっていることがわかります。自分たちに恥をかかせ、それまでは平和だったユダヤ会堂に分裂をもたらしたパウロたちがゆるせなかったのです。彼らの理由もわからなくもありませんが、彼らの「平和」とは誤った聖書解釈によるものだったのです。ルターも宗教改革によってキリスト教界に分裂をもたらした者のようにカトリック側から見られていましたが、聖書の「義認論」の研究によって、彼の主張が正しかったことが、カトリック内でも次第に認められてきています。それはそうと、暴徒化した人々は、他の町での出来事と同じように、パウロたちを捉えて暴行を加えようとしました。こういう時の民衆というのはいかにも愚かな存在です。
6節を見ると、彼らにはパウロとシラスを捜し出すことはできませんでした。そこで、パウロたちを宿泊させたヤソンという人と、キリスト信者を捉えて町の行政官のところに連行しました。ヤソンとは、英語でジェーソン、ヘブライ語でヨシュアのことです。ここで、彼らの言葉「世界中を騒がせてきた連中」、これが当時のクリスチャンのニックネームだった訳です。原語では、「世界をひっくり返す者たち」、という意味です。「古い間違ったものがひっくり返され、破壊されなければ、新しいものを建てることはできません。」[6] 確かにそうです。それに比べると現在のクリスチャンはひどく物静かであるように見えます。もしかしたら聖書解釈ができず真理を十分に把握していないのかもしれません。衝突を心理的に恐れているのかも知れません。それはともかく、テサロニケの町にもクリスチャンたちの「悪評判」が既に伝わっていたことは、この言葉で明らかです。「パウロの説教と教えには強い終末論的な傾向が強かった。」[7] パウロたちは、このために行く先々で迫害されていたということです。わたしたちが迫害を受けたらどうすべきかを皆で話し合ってみましょう。
テサロニケの住民ヤソンは犠牲者でした。彼自身は何もしていません。ただクリスチャンと関係があるというだけで被害をこうむったのです。ここでも、官憲の注意を引くために暴徒はイエス様を信じることがローマ皇帝の否定になるという理屈をでっちあげて、クリスチャンを根絶やしにしようとしました。旧約聖書のエステル記のようです。「これは、ねたみを起こしたユダヤ人のざん言ですから一部間違っています。キリスト者たちは、決して政治的に皇帝に反乱をおこしているわけではありません。」[8] しかし、イエス・キリストを信じる者は皇帝を神として礼拝しなかったことだけは確かです。「イエスの宣教における神の国の強調点は、初代教会の宣教では王なるキリストに移っていたことが示されている。」[9] 敵対者はこれを社会秩序への反逆行為として利用したのでしょう。8節には、当局者の動揺が書かれています。もし彼らが、フィリピでの出来事を知っているならば、いくら暴徒が訴えても、ローマ市民権を持っている者を裁判もなく処罰することはできないからです。ですから、折衷案とでもいえるのでしょうか、ヤソン達から保証金を取るという名目を使って、彼らを解放し、事態の収拾をはかりました。
一方、パウロとシラスはテサロニケを脱出していました。それも、テサロニケの信者たちの助けによるものです。夜陰に乗じて脱出したわけです。そして、さらに西に進み、べレアという町に行きました。彼らに伝道を控えるという選択肢はありませんでした。ですから、逃亡した先であるベレアでも、10節にあるように、ユダヤ人会堂に真っ先に訪ねました。11節で、ベレアのユダヤ人はテサロニケのユダヤ人より心が広く、議論は好まなかったことが分かります。ですから、パウロも議論が好きで議論したのではなく、イエス・キリストが待望されたメシアであることを聖書から論証したかったのです。ベレアのユダヤ人が「熱心に御言葉を受け入れ」た背景として、彼らが日常的にも聖書の権威を尊重していたことがわかります。「彼らは、新奇な教えだというだけで、毛嫌いしてしまうようなことはありませんでした。謙虚に聞く態度を持っていたのです。」[10] テサロニケのユダヤ人は、彼らの宗教思想や彼らが誇りとしていた自前の信仰が、聖書自体の教えとは違っていたことがわかっていませんでした。ですから、議論の原因は聖書の教えに対する無知によるものだったと推測されます。現代でも、聖書の真理があいまいにされたり、人間的な思想に隠された時には、誤った聖書解釈によるカルトが発生することが予想されます。いつの時代にも、こうした困難は避けられないものです。ベレアのユダヤ人は違いました。「ここでは福音に対する単純な感情的反応ではなく、その対応は知的な確信に基づいていた。」[11] 自分たちの感情や常識ではなく、聖書の言葉を生活の基本としていたのです。「ひとりひとりが、聖書を通して神と対面する生活を送るようにと祈ってやみません。」[12]
12節では、その結果、多くのユダヤ人が信じ、異邦人の信者の中でも、上流社会の夫人や男性が入信したと述べられています。ここでも、上流階級の入信が取り上げられていますが、ある面では、学識がないならばパウロの告げていたメシアの到来は理解できなかったのかもしれません。異邦人の多くは、偶像礼拝や、ローマ皇帝を神として礼拝することに疑問を感じず、また、占いや霊媒などの活躍に疑問さえ抱かなかった社会に生きていたわけですから、そうした偽りに気付くには正しい聖書解釈と知的判断力を要したことも確かです。日本の現況も、ローマ時代と大差ないことを考えると、真の知識人が、福音に触れることが待望されます。わたしたちは多宗教の日本の社会で何ができるかを話し合ってみましょう。
しかし、この平和も長くは続きませんでした。テサロニケとベレアは地理的にそれほど離れておらず、ベレアでの伝道はテサロニケの反対派ユダヤ人の知るところとなりました。そして、わざわざ70キロほど離れた場所からパウロたちの伝道を妨害しに来たのです。昔の時代に、商売人はエルサレムからエリコまでの約30キロの距離を歩き、仕事を済ませ、その日のうちにエルサレムに帰ってくるくらい健脚だったそうです。ですから、テサロニケからベレアまでは、一日の行程だったとも考えられます。それにしても、人の怨みは怖いものです。しかし、もっとマクロな視点から見ると、このような迫害も神の御心に無関係ではありません。迫害に迫害を重ねることを神が許したのは何故でしょうか。それを理解するには深い信仰を必要とするでしょう。イエス様ですら、十字架上で「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ27:46)と神に問いかけています。また、わたしたち自身の理解について話し合ってみましょう。
再度の暴動に際して、14節にあるように、ベレアの信者たちはパウロを海岸地方に導き、そこから海路をとって脱出するように助けました。もはや陸上の旅は危険だと判断したのでしょう。しかし、シラスとテモテはベレアに残ることになりました。「同行者たちをそこに残して、若い教会のために配慮したのである。」[13] また、彼らの場合、それほど迫害者には顔が知られていなかったのでしょう。15節では、何人かの信者が海路をアテネまでパウロに付き添ったと書いてあります。それまで、パウロは海を渡ってキプロス島に行ったこともありますし、旅に不慣れだったわけでもありません。しかし、この時は迫害の危険がひっ迫していたのでしょう。付き添いがいることは、パウロにとっても心強いことだったでしょう。死をも恐れぬパウロにも、神は保護の手を与えたのです。「わたしたちも困難のある時、必ず神の助けも、聖霊の導きもいっそう豊かで、現実的であることを信じましょう。」[14] この時点でまだパウロの使命は終わっていなかったのです。神の時です。パウロは付き添ってくれた者たちに、シラスとテモテへの伝言を託しました。パウロは彼らを見捨てたのではなく、大切な伝道の同労者として尊重し、彼らの到着を待つこととしました。後にパウロは、捕えられ、監禁状態の中からテモテに手紙をしたため、「キリスト・イエスに結ばれて信心深く生きようとする人は皆、迫害を受けます」(第二テモテ3:12)、と述べ、一緒に苦難を経てきた彼が意気消沈することがないように励まし、「御言葉を伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。」(第二テモテ4:2)と命じています。これは様々な困難に直面している現代の私達に対する励ましであり、宣教命令でもあります。
[1] 尾山令仁、「使徒の働き下」、羊群社、1980年、112頁
[2] P.ワラスケイ、「使徒言行録」、ウェストミンスター、1998年、162頁
[3] L.マーシャル「使徒言行録」、エルドマンズ、1980年、277頁
[4] 前掲、尾山令仁、「使徒の働き下」、114頁
[5] シュラッター「新約聖書講解5」、新教出版社、1978年、221頁
[6] 前掲、尾山令仁、「使徒の働き下」、116頁
[7] F.ブルース「使徒言行録」、エルドマンズ、1954年、345頁
[8] 蓮見和男「使徒行伝」、新教出版社、1989年、246頁
[9] 前掲、L.マーシャル「使徒言行録」、279頁
[10] 前掲、尾山令仁、「使徒の働き下」、121頁
[11] 前掲、L.マーシャル「使徒言行録」、280頁
[12] 前掲、尾山令仁、「使徒の働き下」、125頁
[13] 前掲、シュラッター「新約聖書講解5」、223頁
[14] 前掲、蓮見和男「使徒行伝」、247頁