印西インターネット教会

悩まずに祈ることを聖書から学ぶ説教

「祈れ、求めよ」     ルカ11:1-13

わたしが学生の頃、母教会である本郷ルーテル教会の聖書の学びに出ていましたが、順番にするお祈りが苦手でした。また、祈りの重要性を考えたことも、教えられたこともありませんでした。それから数十年たっていますが、祈りがなくては今の自分はありません。たくさんの祈りがかなえられています。ここに至るまで時間もかかってしまいましたが、牧師として、祈ることを教えなければいけないと反省しています。

韓国の教会は祈る教会と言われています。韓国人に教会の成長の理由を聞くと「よく祈るからです」という答えが返ってくるそうです。祈りには夜明け前祈祷会、徹夜祈祷会、断食祈祷会、山中祈祷会などあるそうです。そのなかで、夜明け前祈祷会はどこでも行われているのですが、その参加数が多いそうです。たとえばソウル市内のミョンソン長老教会は3万人の会員のうち毎朝1万6千人の信徒が、朝4時半、5時半、6時半、そして10時と4回に分けて教会に祈りに来ているそうです。それは1時間祈り続けるのではなく、讃美歌を歌い、聖書朗読があり、説教がなされ、牧師の祈りがささげられた後、各自が思い思いに大声で祈るそうです。そして、牧師の祝福の後、信徒は職場や家庭に向かうそうです。教会によっては簡単な朝食を出しているそうです。つまり、祈祷会といっても毎日礼拝の形をとっていて、それが生活の一部となっているわけです。

この祈りの起源はイエス様です。「信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる。」(マタイ21:22)「この種(悪霊)のものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできない。」(マルコ9:29)「イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えた」(ルカ18:1)またパウロも教えています。「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。」(フィリピ4:6)祈りは神への信頼に立ちますが、逆に、不平はすべてを定めておられる神への反逆と不信の態度です。

ただ、これらの教えを聞き流さないようにしましょう。わたしたちは自分の努力で得られると思ってはいないでしょうか。信じて祈るべきです。問題の裏には悪霊の働きがあります。この解決には、祈りしか効果がありません。また、祈ってもすぐあきらめてはいないでしょうか。結果はあとです。仕事も同じです。継続性です。それはスプーンで水を汲んでプールを満たすような黙々としあ努力と継続性のことです。結果がすぐにあらわれなくとも、祈り続ける事です。また、思い煩いはだれにもあることです。ですが、その不安な気持ちを第一に神に向けているでしょうか。それとも、友人や家族に相談してホッとしてはいないでしょうか。第一に神に語りかけるべきです。

イエス様もよく祈りました。その時に、今日の福音書の日課にあるように、弟子たちが祈りを教えてくださいと願いました。ユダヤ人にはセデュアという祈祷書があります。ですから、弟子たちも祈祷書は知っていたと思いますが、自由祈祷をしたかったのでしょう。そこでイエス様は、有名な主の祈りを教えました。第一の部分は神への賛美です。「み名が崇められますように」それはハギアゾーという言葉で、神が聖化されますようにという意味です。神に栄光あれと言えます。ちなみに、古代ではクリスチャンはハギオイであり、聖化された人々の意味です。聖霊に満たされ聖化されるからこそ、強制とか義務ではなく祈りがほとばしるわけです。祈らなければいけない、ではなく祈りたい。祈りは神の霊の実りです。次に生きていくために必要な糧を与えてください、と祈ります。それもまとめてではなく「日毎に」です。冷蔵庫や、保存食はこの祈りとは正反対です。恵みは保存できません。「糧」というのはもともとは、パンの意味ですがそこには生活に必要なすべてが含まれます。神の賛美の後、あたかもわたしたちは乞食が憐みを請うように生活のすべてを祈るのです。ルターが「わたしは神の乞食だ」と言ったのは、神から与えてもらわなければ何も持たないという事です。イエス様も、自分は何も持たないという意識でした。実に、すべての悩みは人間の所有意識、持つことを当然とする意識から来ているのです。所有しないことが救いでもあるのです。所有しないからこそ、神から毎日与えてもらって感謝するのです。次の点は対人関係です。それは罪の赦しです。すべての争いは罪の赦しのないところにあります。以前に、アメリカで3人の女性が10年間監禁され暴力を受け続けました。犯人が逮捕され、無期懲役(1000年)になりました。その時法廷で、被害を受け暴力で顔も変形した女性が、わたしの地獄は終わった、しかしあなたの地獄はこれから始まる、わたしはあなたを赦す、しかし忘れない、といいました。さすがにキリスト教の国だなと思いました。日本人なら赦すとはなかなか言えない。

そのあと、イエス様は祈りの内容ではなく、祈りの継続性について教えました。それは、真夜中に友人に助けを求めるのと同じです。断られても断られてもお願いし続けるのです。普通なら、諦めるでしょう。しかし、困難な状況だからこそ、信仰に立って祈るのです。その良い例が創世記18節にあります。ソドムの滅亡を知ったアブラハムによるとりなしの祈りです。50人の正しい人がいても滅ぼすのですか。神は50人のために町の悪を赦そうと言いました。アブラハムは言いました50より5人足りないかもしれません。5人足りないことであなたはソドムを滅ぼすのですか。神は言いました、45人でも正しい人がいれば滅ぼさない。アブラハムはつづけました。もしかすると40名です。神は言った。40名でも滅ぼさない。アブラハムはさらに尋ねた。どうぞ怒らないで聞いてください。30人ならどうでしょうか。滅ぼさない。敢えて申し上げます。20人ならどうでしょうか。20人でも良い。滅ぼさない。最後にアブラハムは尋ねました。どうぞ怒らないでください、もう一度だけお尋ねします。10人ではどうでしょうか。神は言われた、その10人のためにわたしは滅ぼさない。この間何とアブラハムは神に、6回もお願いをしています。神に対しても遠慮せず諦めない姿勢でした。それが信仰でした。わたしたちもそうありたい。ですから「イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えた」のです。求め続けることです。求め続ける意志も求めたらいいです。

イエス様は教えました。求める者は必ず受け、探す者は必ず見つけ、門をたたく者には門が開かれる。これは真実です。そのわけは、天の父が、この地上の親以上にわたしたち一人一人を深く愛してくださっているからです。つまり、祈りとは、形式でも、祈願でもなく、天地創造の神が自分の本当の愛の親であることを自覚し、100パーセント信頼して、謙虚に頼ることが出発点です。神の愛が、主の祈りの中心です。神への賛美、生きる糧を今日も頭を垂れて感謝していただくこと、罪の赦しを信じ赦す者として生きる事、「どんな時にも霊に助けられて祈り」(エフェソ6:18)絶えず祈ること、そこに示される偉大な神の愛を一人でも多くの人に伝えることが印西インターネット教会の使命です。祈りが効かれて感謝することがありましたら、お問い合わせ蘭を通じてお知らせください。

 

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