印西インターネット教会

キリスト教信仰の救いの核心を聖書から学ぶ読む説教

「み心のままに」        ルカ7:11-17

み心のままにと祈るのは比較的簡単であっても、み心が一体何であるかを知ることは難しい事です。クリスチャンが本当の意味でクリスチャンになる狭き門のようなものです。生みの苦しみといえるでしょうか。聖書の中でパウロは、教会の迫害者であった自分の過去を告白しています。それでもなお、み心によって、自分は伝道者になるように導かれたのだと強調しています。おそらくそこの確信にいたるまでは、パウロにもいろいろな苦悩があったことでしょう。

このみ心とは何でしょうか。以前の祈祷会で、ルターが詩編51篇について書いたものから学びました。詩編51はダビデが罪の赦しを願ったものです。そこの51:12~14までは礼拝において「神よわたしのために清い心をつくり」という奉献唱として歌われているものです。そこで示されているのは、打ち砕かれた霊であり、古い自分に死んで新しく生きることです。イエス様は、ヨハネ3:3でニコデモという指導者に、「新しく生まれなければ神の国をみることはできない」と教えました。また、同じヨハネ12:24で「一粒の麦は落ちて死ななければ、一粒のままである。死ねば多くの実を結ぶ」と教えています。み心は試練と無関係ではありません。

さて、今回の場面はガリラヤ地方のナインです。ナインは、ヘブライ語はナイーム、美しいとか愛らしいという意味からきています。イエス様の故郷のナザレから南東へ9キロのところにありました。ナインという町の辺は、イエス様の当時にはローマ軍が駐屯し、異邦人の多い土地であり交通の要所だったと思います。町もいざという時には要塞に転換できるように城壁に囲まれていましたし、大きな城門があったのです。その門のところがこの出来事の舞台です。

それは、悲しい葬儀の日でした。ある哲学者がその著書でこう書いているそうです。「70代までは、年毎に私は死に近づいて生きつつあると思っていた。だから死ぬるのも生き続けるのも、私自身の選択できる事柄のように思われた。・・・・ところが、82歳のいま、死は私の向こう側から一歩一歩、有無を言わせず、私にせまって来つつあるように思われる。私が毎年毎日死に近づいて行くのではない。死が私に近づいてくるのだ」というのです。自分が選べない選択があるのです。自分は無力である。この寡婦の息子はまだこれからの人生でしたが、死の方が近づいてしまったのです。

この寡婦は、イエス様が既に知っていた人だと思われます。たぶん病気がちだった息子さんとお母さんのことが気になって、わざわざ歩いて遠くのカファルナウムからこの町へやって来たら、葬儀になっていたのでしょう。悲しみに沈んでいるお母さんの姿を見て、イエス様は心から憐れに思いました。憐れんだと訳されている言葉は原語では「胸が張り裂けるような思いがする」、あるいは「内臓がえぐり出されるような思い」を持ったという意味です。これは聖書ではイエス様と神にしか使用されていない表現です。神の痛みといえます。この母親はいわば、イエス様の教えを信じ、お金もなく地位もなかったけど、神に仕えるように隣人に仕えたのでしょう。いうなれば、最初のクリスチャンの一人だったわけです。そういう良い人を襲った突然の不幸ということです。

そこで、大きな疑問が生じます。神が悪い人を罰するのは分かりますが、なぜこのような女の人をさらに試練に会わせるのでしょうか。これは人生の不幸と悲惨とに対して、わたしたちは自分の願いと、神のみ心と差に葛藤を覚えます。ただ、実はそれがクリスチャンがただの人ではなく神の霊を受けた人となるための狭き門なのです。

では、聖書は苦しみと試練について何と言っているでしょうか。第二ペトロ2:9「主は信仰のあつい人を試練からすくいだす」とあります。これは理解できます。しかし、フィリピ1:29には「キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです」とあります。苦しみが、神のみ心だというのです。わたしたちの信仰を鍛える大きな機会なのだというのです。そう思えたら素晴らしいことです。それは人生の大転換となるでしょう。

やもめの話の中では確かにこの大転換が見られます。苦しみの中での大変化です。それは、百人隊長の例のように彼女の信仰によるものではありません。彼女は悲しみに沈んでいただけでした。つまりまったく無力だった訳です。また、息子さんの葬式には大勢の人が集っていましたけど、何もできませんでした。彼らも無力でした。人生には人間が無力を感じるさまざまな出来事があります。その極限が死です。

この救いのない世界、死の力に砕かれて無力化されている世界だからこそ、救い主が顕現されたのです。それがイエス様です。無力に砕かれ、引き裂かれる者の傍らに共にたち、自らもはらわたが引き裂かれているのです。救いは来ています。死の支配しているこの世で神の御子がわたしたちの救いのために激しい痛みを負ってくださることによってです。ある神学者は「神の痛みに基礎づけられる愛において人間の痛みは解決される」と述べています。ヨハネの福音書3:17「神が御子を世につかわしたのは世を裁くためではなく、御子によって世を救うためである」通りです。人間の試練、痛み、悲しみ、人間を砕き、無力化する人生の出来事は決して無駄ではありませんでした。ルターは「サタンの働きは人間が自分の悲惨を知ることなく、言われたことはすべてなしうると思い込むようにしておくことである」と述べています。しかし、神は無力の状況を用い、「人間を砕き、恵みへと備え、キリストへと送り、救われるようにする」のです。これが、み心でありキリスト教信仰の核心です。

おそらく、この青年も甦生しましたがやがて死んだでしょう。しかし神の愛の痛みにおける救いを既に見たのです。式文の言葉通りです。聖餐式の終りにあるヌンク・ディミティス「いまわたしは主の救いを見ました」そのものです。自分は弱い。人生は不可避の選択が連続している。悩みも多い。死も迫っている。しかし、この弱さの中でこそ救い主の憐れみの呼びかけをきくことができます。「もう泣かなくてよい」あなたは「起きなさい」。

わたしたちには誇るべき信仰さえないかもしれない。あるのは痛みと、苦しみのかたまりかもしれない。しかし、それで十分です。恵みは十分です。人間の能力によりません。救い主の語りかけを聞いていればよい。その時、わたしたちにも、死の支配から新しい命に移ります。この青年と一緒に立ちあがります。そこにこの悩みと、この死は「終わりではない」と悟ります。それは新しい始まりであり、多くの実を結ぶはじまりであるのです。

ちなみに、「神様はその民を心にかけてくださった」という人々の最後の言葉ですが、「心にかけてくださった」と訳してありますけど、これは「訪れる」「来てくださった」という意味もあります。この悩み苦しむ私のところまで来てくれた、という意味です。あの、預言者エリヤの出来事がその予型であったのです。いま、わたしたちは聖書を通してイエス様のお言葉を聞いていますが、それは、わたしたちが自分の死んだような状態から起きなさいと言われているのではないでしょうか。あるいは、悲しむ友のところへ行って、新しい命の福音を告げることが命じられているのでしょうか。それはともかく、「起きなさい」あなたの苦しみは終わったと今日もイエス様は語りかけてくださっています。み心のままに歩ませていただきましょう。

 

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