印西インターネット教会

葛城ユキさんとボヘミアン

葛城ユキさんが闘病生活のあとに亡くなりました。1983年に彼女が歌った「ボヘミアン」を覚えている人も多いことでしょう。それは、我が家では、神学校を卒業して大分県別府市のルーテル教会に赴任した年でもありました。それまで、行ったこともない九州に住むことは、何か不安な思いがあった事が思い出されます。それでも、どこにいても、やはり人生というものはボヘミアンなのだろうと思います。ボヘミアンという言葉は、ヨーロッパ起源の言葉ですが、同じような生活を送っていた砂漠の民は、ベドウィンと呼ばれています。そして、聖書の中の著名人物でもあるアブラハムはベドウィンでした。また、彼らの最古の信仰告白とも呼ばれる部分が旧約聖書に残されています。「わたしの先祖は、さすらいの一アラムびとでありましたが、わずかの人を連れてエジプトへ下って行って、その所に寄留し、ついにそこで大きく、強い、人数の多い国民になりました。」(口語訳聖書、申命記26章5節)これが新共同訳では、「わたしの先祖は、滅びゆく一アラム人であり」となっていますが、どうも、わたし自身の語感的なセンスでは受け入れにくい表現になっています。それだけでなく、ヘブライ語の原典を見てみると、そこにはARM ABD ABYと書かれていて、ここのABDが、新共同訳では「滅びゆく」と訳されてしまったのです。しかし、わたしがイスラエルで購入したヘブライ語の辞書では、ABDの訳は、基本的に、「さまよい歩く」、「見失われた」、「自由気ままな」、「滅びの危険をはらむ」などの意味を持っています。たしかに「滅びの危険をはらむ」という訳もありうるのですが、それは「滅びゆく」と同義ではないことは明白です。こんな簡単なことが、翻訳者にどうしてわからなかったのかが疑問です。それだけでなく、口語訳聖書にあった「さすらいの」という美しく哀愁を含んだ日本語が廃棄されたことはとても残念です。それはともかく、わたし自身としては、「さすらいのアラム人」を「ボヘミアン」と置き換えて解釈したいわけです。定住地がなく、その日その日に命を賭けているような、綱渡りの生活がそれです。亡くなられた葛城ユキさんも、不治の病気をかかえながら、その日その日を歌に生きていたのだろうと推測されます。亡くなる前のコンサートで「ローズ」を歌ったそうです。これは、ベット・ミラーやジャニス・ジョプリンが歌った有名な曲ですが、その哀愁に満ちたメロディーにも、さすらいの「ボヘミアン」人生を感じさせるものがあります。葛城ユキさんが最後に歌ったものを聞くと、その原語の歌詞の一部にある「死を恐れる魂は、生きることの意味を学べない」というくだりが、胸にジーンと響きます。人生のボヘミアン生活は誰にでもあるものです。それがわたしたち自身にとって、「滅びゆく」人生ではなく、神に導かれた「楽しく自由気ままな」人生であることを心から祈りたいものです。

 

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