印西インターネット教会

キリスト教の救いとは自分のすべてが受け入れられていることを受け入れる事であるという教えについて読む説教

「厚化粧に泪あり」        ルカ7:36-50

何年も前に読んだ本に、元ヤクザの人が牧師になったいきさつが書いてありました。奥さんが韓国人で熱心なキリスト教信者でした。羽振りが良かった時には神を信じることなど微塵もなかったのですが、失敗をして財産を失い、命も狙われるようになってから弱気になっていました。新宿の歌舞伎町に住んでいて、初めて行った教会の祈祷会が早朝祈祷会でした。歌舞伎町界隈の飲み屋のホステスの多くは韓国人のクリスチャンで、仕事が終わって早朝祈祷会に来ていました。彼らは泣きながら祈っていました。化粧がはげ、つけまつげが落ちて、ものすごい形相でした。それでも熱心に祈っていました。ヤクザの彼も負けまいとして祈ったそうです。やがて彼も救われました。それにしても、これこそ厚化粧に泪でした。イエス様の弟子のひとりのマグダラのマリアも売春婦だったと考えられています。同じ出来事を書いた記事がヨハネ福音書12章にもありますが、そこでは女の人はラザロの兄弟マリアであり、香油は300万円もするような高価なものだったと書かれています。またマルコ福音書16章にはマグダラのマリアがイエス様の遺体に塗る香油を用意したと書かれています。そこで、マグダラのマリアと、ラザロの兄弟だったベタニアのマリアには共通点がありますが、紀元591年にグレゴリウス1世が同一人物とした以外は、他の教派では認めていないそうです。グレゴリウス1世は礼拝の整備、教会改革に力を尽くした人でした。グレゴリオ聖歌の名前もここから来ています。聖書を見ると、300万円もするような高価な香油をイエス様に注いだ人が大勢いたとは思えず、やはりグレゴリウス1世が同一人物と判断したのは正しかったのではないでしょうか。

それだけではないのです。聖書に一貫する思想がここに示されています。その思想とは、罪の重いものがイエス様によって救われるという考えです。逆に、自分は正しいと思う者は救いから遠いのです。最初に救われたのは弟子たちではなく、イエス様の隣の十字架に磔になった強盗のバラバでした。また、イエス様の復活を最初に目撃したのは罪深いマグダラのマリアでした。それに、キリスト教徒を迫害していた、罪深いパウロもイエス様に出会って救われました。パウロの場合には自分は一番罪が深いと言っています。これは単なる偶然でしょうか。そうではないと思います。聖書は、後にイスラエルとよばれて尊敬されるようになったヤコブの罪も書いています、モーセが争いにまきこまれて殺人をしたことも書いてあります。

また、旧約聖書には、ダビデ王の悔い改めの話が出ています。ダビデは部下のウリヤを戦死させ、その妻のバトシェバを自分の妻にしました。ここで、ダビデ王は預言者ナタンの比喩を聞いて激怒しました。話の中の金持ちの男が自分にはたくさん羊がいたのに貧しい男の家族のような羊を料理に出したのは、余りにも理不尽で、冷酷だからです。ところが、この話はダビデ王が自分でしたことを比喩したものでした。預言者ナタンはダビデ王を悔い改めに導くためにこの話をしたのです。興味深い事に、ダビデ王が「主に罪を犯しました」と告白すると、ナタンは「主が罪を取り除かれる」と約束したのです。ここに見られるのは、神の無条件の赦しです。これから何かの償いをしたから赦されるのではありません。罪を認めた時点で、その罪を神が取り除いてくださるのです。聖書の教えは一貫しています。罪人が、神の憐みによって救われ、新しく生まれ変わることです。

そこの点が、パウロの手紙にある、信仰によって義とされるということです。行いがこの世では重要視されます。行いによって人間が採点されている世の中だからです。ただ、聖書において救いは、行いとか、その人が役に立つ能力を持っているか、過去の行動がどうだったかは問題としません。だから、ルターも「人間によって発案され、導入されたものが捨てられ、無視されること」がどうしても必要だと述べています。

36節に出てきますファリサイ派の人々はこの世の人間的な基準からみて立派な人でした。ところがここで一つの事件が起こりました。

その事件とは、ある罪深い女の登場です。当時の食事は、低いテーブルも周りを横になって、左側を下に寝ころんで食事しました。イエス様の後ろからこの女が近寄ったということは、投げ出していた足を触れたということです。そして足に香油を塗ってくれたのです。香油を塗るだけでなく彼女はイエス様の足に接吻までしたのです。彼女は厚化粧の女だったでしょう。ただ、すごいことはイエス様が彼女を追い払わなかったことです。

これこそが重大な聖書真理です。罪の女を追い払わないイエス様、それは罪人を見捨てない神の姿を現していると思います。神は、モーセもダビデも、パウロも見捨てませんでした。むしろ、悔い改めた彼らを大きく用いています。

その時にあの人間的に真面目なファリサイ派の人がどう思ったかが重要です。彼は罪深い女からこのような接待を受けるべきではないと思ったのです。あんな女に愛されておかしいじゃないか。そう思ったわけです。人間には罪がありますから、人を赦すことができません。人間は神の力がなければ、昔の思い出を消すこともできません。ダビデ王が、自分の罪を悔い改めて書いた詩編51編が礼拝の中の奉献唱になっています。「わたしをあなたのみまえから捨てず、あなたの聖なる霊をわたしから取り去らないでください」、となっています。ダビデは、人間ではなく神だけが赦しを与えることができると知っていたのです。

ただ、こうした福音を知らない人は意外に多いものです。自分が余りにも正しい人間だと、思い込んでいるわけです。そこで、イエス様は預言者ナタンの時と同じように比喩を語りました。たくさん500万円借りた人と50万円借りた人がいて、どちらも返せず、帳消しにしてもらった場合に、どちらが多く感謝し愛するだろうかという質問です。答えは明白です。赦してくれたのは神です。少ししか赦されないのはあなたです。最後で、イエス様のダメ押しです。その一番素晴らしい愛を持つ者こそ、ここにきている罪の女だと言ったのです。そこをほりさげるならば、イエス様をとおして神を愛する者は厚化粧の罪の女なのです。その喜びと愛とを現わしているからです。そして、わたしたちは考えなければなりません。あなた方はどうなのか。自分はどうなのか。この厚化粧の女より自分は罪が浅いと言えるのだろうか。罪の赦しとは神に受け入れられたことなのです。神に受け入れられた者は自分をも受け入れ、隣人も受け入れることができます。神に受け入れられていないしるしは、自分をも受け入れられず、隣人も受け入れることができないでいることです

イエス様はこの女にあなたの信仰があなたを救った安心して行きなさいと、赦しの宣言をしてくださいました。この女も歌舞伎町の女性たちも、その後の生活は変わらないでしょう。そうしなくては生きていけないでしょう。しかし、赦しを受けたのです。これは、礼拝と同じです。主の憐みを求め、罪を懺悔し罪の赦しをうけ、詩編51を歌って感謝の供え物をささげ、祝福を受けて帰路に就くのです。この恵みは2千年間変わっていません。赦されることは愛を知ることです。他人にひどいことを言われても気にしないようになります。罪が赦されていない人もいるからです。自分が失敗してもくよくよしません。罪は既に許されているからです。大切なのは自分への愛、隣人への愛です。そのことをイエス様は教えています。

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