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パウロが神の摂理をどのように受け止めたかを聖書から学ぶ

使徒言行録21章1節16節   文責 中川俊介

エフェソの長老たちと別れ、パウロはついに迫害の待ち受けるエルサレムに向かいました。これは死を覚悟してエルサレムに向かったイエス様の姿に似ています。神の摂理とも言えるでしょう。一行は、最初はコス島に向かい、その後、翌日にはロドス島に到着しました。ロドス島は現代では観光で有名な場所でもありますが、そうした風光明媚な場所をパウロは何を考えながら通り過ぎていったのでしょうか。それから船は小アジアのパタラに着いています。その船はエルサレム方面には行かなかったようです。あるいは停泊地が多すぎて日数がかかるために替えたのかもしれません。パタラで直接フェニキア(イスラエルに近い地中海沿岸地域)に向かう船に乗り換えています。ルカが何故このように詳しい道程を記載したのかは不明です。ただ、かなり几帳面に日記のようなものをつけていたとも考えられます。3節では、我々も船に乗って同行しているかのような描写が続きます。「クリスストムによればパタラからティルスまでは5日の船旅であったようである。」[1] パタラからキプロス島までは300キロほどありますが、それを左に見ながら直進し、目的地であるフェニキア地方の港町ティルスに着きました。「このフェニキアの港湾都市であるティルスには、ステファノの殉教以後の迫害によってエルサレムから逃げてきた人々によって、既に教会が設立されていた。」[2] 地図上で見るとこの港はイスラエル北部に近く、目的地のエルサレムに行くにはまだ長い陸路を越えていかなければなりません。そのような旅は、大切な献金を運んでいる際には危険なものだったでしょう。3節には、その寄港は荷物の陸揚げのためだったと書かれています。レバノン杉の産地なども遠くはなかったので、ギリシアからの荷物をおろし、地元の産物を積んだことでしょう。これは、古代の交通と産業の動きがわかる貴重な記録でもあると思います。

船の停泊期間は7日間でした。ルカとパウロの一行はその間にティルスで弟子たちを探しだしたと4節に書いてあります。少しの時も無駄にしない彼らの伝道姿勢がしめされているようです。「主にある兄弟姉妹の交わりのために、彼はあちこちを尋ね回って、ようやく見つけだしたのです。」[3] ところが、ティルスの弟子たちは聖霊のお告げによって、エルサレムでの迫害を知り、パウロにそれを避けるように願いました。それを何度も求めたわけです。「そのような警告は、マケドニアの諸教会のみならず、エルサレムの状況が兄弟たちにももっとよく分かるここでも、提出されたのである。」[4] ここには少し難しい問題が隠されています。パウロも前にみたように、聖霊によって導かれ、迫害を知りながらもエルサレムに向かう決心をしました。同じく、ティルスの弟子たちも聖霊のお告げによってエルサレムでパウロが受ける迫害を予知して、それを避けるように頼みました。同じ聖霊の働きですが、一方は受難の道、他方は避難の道を示しているようにみえます。ただ、両方とも迫害については共通であり、避難するという「解決策」はティルスの弟子たちの考えによるものでしょう。さて、この聖霊とは何でしょうか。「聖書を見ると、聖霊は、わたしたちが苦しみ、悩み、弱くされ、もがく、その時、力強く働き、わたしたちを生かしています。」[5] わたしたちであったらどの場合に聖霊の導きを感じるでしょうか。

再三の警告にもかかわらず、ルカとパウロの一行は予定された道を進むことにしました。受難の事は別にしても、彼等には伝道地の教会からの尊い献金を貧しいエルサレムの信徒たちを助けるために届けるという義務があったのです。この滞在期間は良き交わりの時であったと同時に、将来の道を決定する祈りの時でもあったでしょう。パウロたちが自分の意志だけでティルスの弟子たちの親身な忠告を退けたとは考えられません。共に祈り、共に教会のために最善を求めたに違いありません。そして、これはパウロにとっての十字架への道(ヴィア・ドロローサ)であり、神の摂理であったのです。筆者のルカはそれを強調したいのだと思います。

5節からは再び別れの場面です。ミレトスでもそうでした。しかし、ミレトスとは違うのは、今回集まったのが教会の代表者ではなく、ティルスの弟子たちとその家族たちだったのです。これは何を意味するのでしょうか。家族ぐるみの交わりが出来たのは、その地方でキリスト教を信仰することがそれほど危険なことではなかったことをあらわすと思います。迫害の激しい地域では、覚悟を決めた者しか集会に出ることができなかったからです。ティルスでは妻たちや子供たちの賑やかな集団が、決死の覚悟でエルサレムに向かうパウロの一行を見送ることになりました。なんというコントラストでしょう。動と静の対比とも言えるでしょう。あるいは生と死の混在でもあります。これはきわめてキリスト教的なものであって、喜びと悲しみ、創造と終末は別のものではないのです。人々は浜辺に跪いて祈りました。これは新約聖書の中で最も美しい光景の一つだと考える学者もいます。確かにそうでしょう。この祈りはミレトスの時と同じように、厳粛な祈りの形でした。パウロの一行のエルサレム行に反対した者たち、心配していた者たち、それらすべてが主の前に跪き、すべてそれから起こること、生も死をも、主のみ手に委ねたのです。ここに信仰者の厳粛な姿が見られます。そして、彼らは別れを告げて家に帰り、パウロたちは乗船しました。やはり、危険な陸路をエルサレムまで旅するのではなく、エルサレム近くの港まで船旅を続けたのです。

次の寄港地は、それほど遠くはないプトレマイスでした。この町はアコーとも呼ばれ、有名なカルメル山から遠くない場所にあり、要塞都市とも呼ばれます。後の十字軍の時代には、ヨーロッパからの軍の拠点がこの町だったからです。湾が広く、平らな海岸線しかない地中海東部では天然の良港だったのでしょう。ここでもパウロたちは地元の信徒たちと交わりの時を持っています。このような形で彼らはギリシア各地の教会の様子、教理の問題などを話し合ったに違いありません。教会が強められるには、こうしたグラスルーツ的な交わりが重要だと思われます。わたしたちの教会の交わりについても一緒に考えてみましょう。違った交わりの可能性としては何があるでしょうか。

さて、翌日、パウロたちは海路をカイサリアに向かいました。「ここでペトロがコルネリウスの家に初めて福音を伝えてから20年が経過していた。」[6] カイサリアは当時のローマ総督が駐留していた海岸の要塞都市で人工の堤防を備えた港がありました。現代でもそこはローマ時代の遺跡として残っています。そのカイサリアの町で、12弟子に選ばれた7人の一人で、エチオピアの高官に福音を伝えたフィリポにパウロたちは会ったのです。フィリポはイスラエル南部の海岸地帯であるガザ地区で活動した後、海岸線を北上しながら多くの町で福音を伝え、カイサリアに行ったとあります(使徒言行録8:40)。ですから、このフィリポを訪問することは、パウロにとって過去を回顧する機会でもあり、フィリポの6人の同僚の一人であったステファノが処刑された時に迫害者だった自分の事を思い出す機会でもあったでしょう。心にしみる場面です。恩讐の彼方にとでも言えるでしょうか。そこでどんな会話がなされたかをルカは記録していません。ただ、ルカは9節以下で、フィリポの4人の娘たちに着目しています。彼らもクリスチャンであり、預言する能力を持っていました。「この婦人たちの預言の言葉は評価され、彼女たちの墓は、第二世紀まで尊敬のまとであった。」[7] しかし、「驚くべきことに、預言能力があったにもかかわらず、彼女らはパウロの運命について何も語っていない。」[8] そして、パウロたちがカイサリアのフィリポの家に滞在していたときに、これから行く先のユダヤ地方からアガボという預言者がやってきました。彼は以前、エルサレムからアンティオキアに来て大飢饉を預言した人でした。(使徒言行録11:28参照)。そして、パウロの帯を使って、パウロがどんな方法で捕縛されるかを示したのです。このように預言内容を実演したり動作で示すことは旧約時代からのイスラエルの伝統でした。それはまた聖霊の示しによるものでした。以前に通過したティルスの町でも、そこの弟子たちは聖霊のお告げによって、パウロがエルサレムで迫害されることを知っていました。ここでも同じことが起ったのです。しかし、それはパウロにも既に示されていたことでした。12節では、この光景を前にして、筆者のルカさえもパウロのエルサレム行きを引き留めたとあります。その時のパウロの態度に信仰者の神髄を垣間見ることが出来ます。そして、その情景がじかに伝わってくる描写です。13節にあるように、人々は泣いたり嘆願しながら、どうにかしてパウロの気持ちを変えたかったようです。それはパウロを愛し尊敬する者たちとしては当然の行動です。しかし、それが100パーセント信仰を土台としたものかと問えば、疑問も残るわけです。ですから、パウロは彼等に「いったいこれはどういうことですか」と尋ね、あなた方の信仰は自分の願望に従う事なのか、それとも主が定めた道を従順に歩むのか、と問い返したのです。そして、主の為ならば、縛られ殺されることもすでに覚悟していると告げました。ただ、パウロの願いは帝国の首都ローマでも福音を伝える事でした。「実際はこの時、パウロは決してエルサレムで死にはしませんでした。むしろ神は、パウロを、エルサレムからローマへと導いていかれたのです。」[9] これも神の摂理です。その後のルカの言葉も興味深いものです。説得が不可能と知った人々は、「主の御心が行われますように」と言って、それ以上説得することをあきらめました。主の祈りの一部分と同じです。ただ、ここで人間的にあきらめたわけではありません。彼らにとって大切な指導者であったパウロを失うことを、これも神の御心ならば受け入れなければならないと、彼ら自身も覚悟を決めたのです。人間的な判断で考える良いことも悪いことも、神の愛の世界では別の方向へと導かれることがありますし、この神の摂理へと思いをよせることが信仰者の姿勢でしょう。わたしたちはどうでしょうか。人生の岐路に立つときに、わたしたちは何をもって判断基準としているでしょうか。皆で話し合ってみましょう。

15節には、その後一行はカイサリアの弟子たちも一緒に旅の準備をして、エルサレムに上って行ったとあります。「これはエルサレムで五旬節を祝うためであったと考えてよいであろう。」[10] 現代ではカイサリアからエルサレムまで高速道路が完備していますので、約1時間程度で行ける距離ですが、徒歩ではどうでしょうか。距離は100キロで、標高差も1000メートルくらいはあります。おそらく2日以上かかる旅であったと思います。それでも、プトレマイスあたりからサマリアを通ってくる道よりははるかに安全で便利だったでしょう。そしてカイサリアの弟子たちの何人かはパウロの一行にエルサレムまで同行し、途中でずっと以前から弟子であったムナソンという人の家に泊まれるように世話をしてくれたとあります。「パウロの同行者たちにとって、カイザリアのピリポやこのマナソンのような人物に会って、イエスの在世当時やエルサレム教会の最初の建設期の思い出を振り返って聞くことは、重要だったのである。」[11] エルサレムに着けば知人たちも多かったのでしょうが、その途中の旅を支えたのです。信仰継承の時は特別な時ではないのです。このムナソンという人の名前もここに登場するだけで、2千年の歴史の中で忘れ去られているわけですが、実は、わたしたちの人生の中にもたくさんの無名の「ムナソン」が存在していて、わたしたちの人生の旅路を支えてくれてきたことを覚えたいものです。

[1] F.ブルース「使徒言行録」、エルドマンズ、1954年、421頁

[2] P.ワラスケイ、「使徒言行録」、ウェストミンスター、1998年、191頁

[3] 尾山令仁、「使徒の働き下」、羊群社、1980年、310頁

[4]  シュラッター「新約聖書講解5」、新教出版社、1978年、269頁

[5] 蓮見和男「使徒行伝」、新教出版社、1989年、296頁

[6] 前掲、P.ワラスケイ、「使徒言行録」、192頁

[7] 前掲、シュラッター「新約聖書講解5」、271頁

[8]  L.マーシャル「使徒言行録」、エルドマンズ、1980年、340頁

[9] 前掲、蓮見和男「使徒行伝」、298頁

[10] 前掲、L.マーシャル「使徒言行録」、341頁

[11]前掲、シュラッター「新約聖書講解5」、272頁

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