印西インターネット教会

戦後77年を覚える平和の説教

「愛と平和」      ヨハネ15:9-12

今年の夏は戦後77年になります。そのころ5歳くらいで、当時のことがかろうじて記憶に残っている人たちもすでに82歳になっています。わたしの妻の実家は広島にありますが、広島市内は原爆で壊滅状態になりました。妻の姉の夫も、子供のころに爆心地から2キロくらいのところで被爆しました。その後長い間、原爆症でつらい思いをしました。広島で20万人の犠牲者、長崎で10万人の犠牲者を出し、国内全体では300万人以上の犠牲者をだした戦争でした。しかし、こういう犠牲にもかかわらず、知人のある先生は、日本には世界平和のための三種の神器があるといいます。それは軍国主義による悲惨な結果、被爆の痛ましい体験、そして平和憲法だというのです。しかし、ウクライナ戦争などの脅威を感じて、こうした三種の神器も風化しつつあるのではないでしょうか。「喉元過ぎれば熱さを忘れる」とはよく言ったものです。77年という歳月の中で、戦争の痛みをじかに体験した人も少なくなりました。ちなみに、終戦時にすでに就学していた85歳以上の人口は約600万人です。

今回は、そんな事情もありまして平和に関する聖書箇所から学んでいきたいと思います。世の中では、戦争に反対するには平和活動だという意見もありますが、根本的には戦争の痛みや恐ろしさを覚えることが大切ではないでしょうか。わたしが若いころ、聖路加病院の故日野原先生のもとで研修を受けることができました。その際に、病室まわりで出会った患者の一人に、東京大空襲で被害を受けた人がいました。勿論、彼の家や財産は焼けてしまったのですが、特に酷いヤケドを負っていて、顔の半分はケロイド状の痘痕顔になっていました。その人が、現在の政治家が主張している軍備増強を聞いたらどう思うでしょうか。おそらく、そのむなしさを一番よく知っているのは彼ではないでしょうか。軍備を増強することによって、犠牲者を減らすことはできません。むしろ、より多くの犠牲者を出して相手を屈服させようとするのが軍備です。彼のような犠牲者を生み出すことに何のためらいも持たない人間とは、すでに悪の化身です。わたしたちは、むしろ、争いの原因と結果を深く知ることが必要ではないでしょうか。争いの原因は敵意です。敵意の原因は利害とか国益です。安倍元首相が狙撃されたのも、もともとは、政治的利害によってカルト教団を温存させ、家族を破滅させたからです。それがあれほどの敵意を生んだのです。一方、どんな人でも人間が利害に立っている限り必ず敵意が生じます。以前に問題になった尖閣諸島の問題も、小さな島の領土権が問題なのではなく、その近辺の莫大な海底資源の所有権が問題なのです。しかし、それは政治の世界だけのことでしょうか。身近な生活にも敵意が生じることがあるでしょう。わたしたちも、自分のなかに敵意や怒りが生まれた時には、それには複雑な利害がからんでいることを意識したいものです。

さて、敵意とは自分を守る壁です。動物が、見知らぬ敵に牙をむきだしにして威嚇するのも同じです。人間の場合でも、神を知らずに生きてきた者ほど、自分を守る壁が厚く敵意に満ちやすいものです。神が守ってくださることを知らないのですから、仕方がありません。せいぜい、ハリネズミのようになって自分を守るしかありません。ただ、敵意に生きている者ほど自分が、相手に針を向けていることを自覚できません。それが小さな言葉や、小さな態度の中にでてきて、相手を傷つけるわけです。そうした態度の根底にあるのは憎しみです。このへんの事情を語っているのが、創世記に書いてある人類最初の殺人事件です。それはアダムとイブの子、アベルとカインのあいだに起こりました。カインは長男でアベルが弟でした。二人とも神に献げものをしました。ところが神は、カイン献げものを褒めませんでした。たぶん、アベルが持ち物の中の最高のものを献げたのに、カインにはそうした敬虔な思いがなかったからでしょう。その時、アベルには二つの選択肢があったと思います。一つは、自分の神に対する態度には本当の感謝がなく、月並みで形式的な献げものをしただけだったという反省です。もう一つは、自分の不満と怒りを誰かにぶつけることでした。そして、カインは反省することなく、「激しく怒って顔を伏せた」(創世記4:5)です。神に怒りをぶつけられないカインは、弟のアベルを野原に誘って殺したのです。

怖いのは、憎めば憎むほど自分が敵意によって行動していると自覚できないことです。しかし、考えてみましょう。カインの時代よりもはるかに文化的に高かった戦前の日本人たち、そして、理性的で、優秀で、温和な普通の日本人たちが、敵意を持って連合国軍と戦ったのです。それだけでなく、中国や朝鮮半島では多くの民間人を殺害したのです。現在のロシア軍のウクライナでの行為にも似ています。トルストイなど多くの文豪を輩出したロシアの心の広さはどこに行ったのでしょう。「お国のため」という国益のために、多くの犠牲者がうまれるのです。

利害が第一とされるところで、戦争や争いが起こるは必然です。国の利害だけでなく個人の利害も同じです。利害の衝突を生み、衝突は憎しみを増加させます。そこで、社会でも家庭でも際限のない争いがおこります。もともとは小さな利害です。約束を守ったか守っていないか。恥を受けたとか、失敗させられたという責任転換。誰かが偉そうにしているとか、ボスになっている問題など、様々な原因があります。

その解決方法はキリストの十字架だけだと、聖書は教えています。では大きな十字架を家の壁にかけたら争いは止むのでしょうか。そうとも思えません。みんなで仲良くしましょうねという標語を毎日唱えたら敵意が消えるのでしょうか。そうは思えません。わたしたちはまず聖書から愛と平和の福音を聞かなければなりません。自分の中に怒りがあるならば、それは十字架がしめす愛と平和によって解決されなければならないのです。

今回の福音書では、イエス様が「わたしの愛にとどまりなさい」と三度も述べています。環境や他人を見ていてはいけないのです。そこから愛は生まれません。キリストの愛、全ての人のしもべとなった方の、低い姿にとどまりなさい、と勧められているのです。15章18節には、もし皆さんを憎む人がいたら、その人は実は神を憎んでいるのだと教えられています。カインの場合もそうですが、憎しみは、実は自分にひどいことをした相手に向けられていると思いがちです。しかし、実は、それは神に対する怒りと憎しみだと教えられています。兄弟のいざこざも、神の御心と無関係ではありません。相手に腹を立てることは、神への敵意を持つということです。十字架が敵意を終わらせるということ、あるいはパウロが言うように十字架を負って生きることは、神の与える喜びも苦難も、侮辱も、そのまま受け入れるという、従順な姿勢のことです。ローマ軍の百卒長の信仰の例話がありますが、イエス様の教えの中での信仰とは、難しいことを信じることではありません。百卒長がイエス様に、「何でもわたしに命じてください。わたしは権威の下にあるものですが、部下にいけといえば行くし、来いといえばきます。」(マタイ8:8以下)と言いました。これを聞いて、イエス様はこれほどの信仰は見たことがないと言って褒めたわけです。つまり信仰とは、神への従順な態度、人生に不平不満を漏らさない態度のことではないでしょうか。それは低い姿、屈辱の姿、自分のなさけない姿を、ありのままに受け入れることにほかならないのです。

十字架に生きて敵意を終わらせること。それが、政治的な解決よりももっともっと大きな神の福音の大きな使命であり、教会の使命です。ただ、人間がそれを実現できるかは別問題です。聖霊が与えられなければできません。むしろ、自分にはできると思いこむ方が危険でしょう。わたしたちは小さな存在にすぎません。

でも、小さき者、弱い者にこそ、福音は示されています。これは本当です。ユダヤ人は神の前の人間の小ささを笑うのが上手です。ユダヤ人の言葉であるヘブライ語では、ジョークという言葉はホフマであり、これは知恵を意味する言葉です。

こんな話があります。ユダヤ教の牧師であるラビのコーエンが街を歩いていると教会員のコーエンに会いました。眠そうな顔をしていたので、ラビは元気ですかと尋ねました。するとコーエンは「ラビの説教を聞いたら夜も眠れなくて困りました」と言いました。ラビは、自分の話でコーエンが感動したと思って、笑みを浮かべて言いました「わたしの話についてそんなに思いつめない方がいいですよ。」するとコーエンは言いました、「そうではないのです。ラビの説教を聞くといつも寝てしまうのです。だから夜には眠れないのです。」実は、こういう話をユダヤ人のラビは好みます。自分が小さいことを認め、自分を笑うことが知恵だからです。わたしたちも自分自身をわらってみたらどうでしょうか。もしかしたら、新しい知恵を与えられるかも知れません。

神は憐れみ深い愛の方です。ミカ書に「主は剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする」と書いてあります。わたしたちは自分ができていると思っていても、実はできていないことを、誠実に神に告白するだけで神は喜んでくださるのです。それがアベルの捧げものと同じでしょう。わたしたちは、神が与えてくださる愛と平和を信じ、二度と悲惨な戦争が繰り返されないように、まずわたしたちの身の周りから敵意と怒りのない平和な生活を神に求めたいものです。

 

 

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