人通りの多い渋谷の繁華街で母娘が中学三年生の女子に切りつけられました。面識はなく、無差別の刺傷事件でした。逮捕された少女は、死刑になりたくて事件を起こしたと語っているそうです。この原因は何でしょうか。家庭環境とか、学校生活でのストレスとかが考えられると思います。わたしはそのほかに、宗教の衰退が考えられると思います。命を大切にするという、宗教の根本姿勢が見えなくなっていると思います。日本では、仏教や神道が伝統的な宗教ですが、昔は子供たちにたいして、小さな虫や動物の命も尊重するように教えられていました。「鶴の恩返し」とか「浦島太郎」のウミガメの話などを通して、命を助けることは、やがて自分の幸福にもつながってくるのだと教えられたものです。ところが、日本の諸宗教は、新興宗教の台頭とともに、商売繁盛とか家内安全などのご利益的なものに変質していきました。キリスト教でも、キリシタン時代の純粋な信仰心は皆無となり、単に心の平和を求める安定剤的な宗教に変質してきています。それでもなお、自分の幸せを求める時点では。プロ・ライフというか、命の保全を志向していたわけです。ところが、この渋谷刺傷事件の女子のように、自分の死も他人の死も、おかまいなしだという兆候が現代社会に現れています。ウクライナへの軍事侵略なども含めて、一つの世紀末的徴候が示されています。その内容は新約聖書の末尾にある黙示録に書かれています。他人を殺害して自分も死のうとした女子中学生は、「自分が惨めな者、哀れな者、貧しい者、目の見えない者、裸の者であることがわかっていない」(黙示録3章17節)のではないでしょうか。こうした、自己自覚ができれば、他者を殺害するのではなく、自分自身の存在を悔い改める方向に向かいます。だから、この少女に足りないのは悔い改めであり、この社会の政治・経済・教育に足りないのも悔い改めなのです。そして、既存宗教も、悔い改めを教えることをやめてしまっているのです。それは、世の終わりが迫ってきている徴候ともいえるでしょう。ノアの箱舟の話にもあるように、巨大な規模の破滅の前には徴候があるものですが、多くの人はそれを信じることができません。昨日までやってきたことが明日もできると過信しているのです。実は、宗教の役割は、そういう態度に対して「否!」と唱えることなのです。印西インターネット教会では、世界中の諸宗教が人類に再度悔い改めを教え、神の裁きが保留されるように願ってやみません。渋谷刺傷事件を他山の石として、宗教改革の再来を望みたいものです。