印西インターネット教会

パウロの裁判における神の摂理を聖書から学ぶ

使徒言行録25章1節12節   文責 中川俊介

パウロはカイサリアで軟禁されて2年間を過ごしました。「しかもそれは、ただ総督が、ユダヤ人の歓心を買うためにほかなりません。」[1] その間に、色々な出来事があったことでしょう。ただ、ルカはその間の出来事を記録していません。再び記述が始まるのは、新しい総督であるフェストゥスがカイサリアに着任してからです。「紀元57年に皇帝ネロはポルシウス・フェストゥスをユダヤの総督に任命した。」[2] 1節には、フェストゥスが着任して3日後にエルサレムに行ったと書いてあります。「フェリクスの後任として総督になったフェストゥスは有能な支配者であるように見える。」[3] フェリクスは治安問題の対応でユダヤ人から訴えられ、皇帝ネロによって召喚されてしましましたので、後任のフェストゥスは注意深く行動したものと思われます。そんな事情もあって、新任のフェストゥスはカイサリアにいて静かに業務を進めるのではなく、当時の一触即発の弾薬庫ともいえるエルサレムを警戒していたわけです。おそらくは、その背景にローマ政府からの指令もあったことでしょう。エルサレムは、ユダヤ教の宗教の中心でしたが、その宗教が原因となって戦争に巻き込まれることになりました。イエス様そうした宗教の危険性を熟知して、「剣を取る者は皆、剣で滅びる」(マタイ26:52)、と教えました。現代ではイスラム教の原理主義の者たちが世界中で争いを起こしています。また、ロシアのウクライナ侵略も武力による異民族支配の一例です。こうした、争いや憎しみ、敵対、戦争というものを冷静に観察するならば、そこには自己の立場や思想を絶対化する姿勢が原因になっているように思われます。イエス様は「兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける」(マタイ5:22)、と教えました。自分の判断の絶対化を戒めたのです。逆に、争わない人は、優しい人だけではなく、自分が絶対に正しいことは絶対にありえないと聖霊によって示された人なのです。わたしたちの社会ではすべての事柄の運営に関して、この点を常に留意していきたいものです。

さて、フェストゥスがエルサレムに行くと、そこにいた祭司長たちや議員たちが、パウロの身柄をエルサレムに移送するように求めました。エルサレムでもローマ式裁判を行うことは可能でした。ただ、彼らの目的は公正な裁判の執行ではなく、暗殺でした。彼らの以前の暗殺計画は密告によって挫折しましたが、2年たったあとでも彼らの願いは変わらなかったのです。「悪魔はしつこいのです。彼らは、あくまでもパウロ暗殺の計画をやめようとはしません。」[4] だから、信仰もそれ以上に忍耐強いものである必要があります。また、悪魔が憎しみと怒りで攻撃して来るならば、信仰者は愛と赦しをもって防御する必要があるでしょう。憎しみに憎しみを、怒りに怒りを生じさせることは悪魔の巧妙な策略だからです。パウロがエルサレムに送られれば自分たちの好きにできると、悪魔に支配された人々は考えました。そんな際に、彼らのユダヤ教信仰において、迫害をどのように是認したのでしょうか。パウロを殺すことで、問題が解決するとでも考えていたのでしょうか。ただし、彼らのその方法は、アダムの子、カインとアベルの兄弟間の葛藤と殺人事件にもみられる人類共通の問題なのです。自分の気にくわない者、集団の利益に反する者、自分を卑しめる者などを排除しようとするのです。いじめなどもこの一例ですね。パウロの場合にも、彼はまさに、多くの「敬虔な」ユダヤ人にとって、彼らの信仰を冒涜し、彼らの社会に不利益を及ぼす害虫のような存在となったのです。現代の教会はこうした人類共通の「異物排除」の問題に対して、福音的な回答を提示する使命をもっていると思いますが、実際には、自らの存在確保に汲々としている状態です。

4節では、ユダヤ人たちの願いを聞いた時のフェストゥスの対応がでています。フェストゥスにはパウロを移送する考えはありませんでした。カイサリアで以前と同じように告発すれば良いと言ったのです。「フェストは、エルサレムにおける滞在をのばそうと思わなかったし、また判決を他の人に任せる気持ちもなかった。」[5] ユダヤ人の計画通りに暗殺計画が進んだとしても、そこには社会的騒乱が助長される可能性があり、フェストゥスは極力それを避け、全ての事柄を自分の直轄地域であるカイサリアで行うように求めたのです。フェストゥスは自分の置かれた立場を熟知した人だったと思います。また、ユダヤ人には妥協的ではありましたが、圧迫には屈しない人でもありました。残念ながら彼は在位数年にして亡くなっています。

フェストゥスがエルサレムに滞在したのは10日前後であったと6節にあります。パウロの事柄だけでなく、フェストゥスには済ませなくてはならない様々な政治的任務があったのでしょう。そして、カイサリアに帰るとすぐに裁判を行っています。フェストゥスの意見に同意し、彼に同伴してカイサリアに来たエルサレムの祭司長や議員らも裁判の座につきました。彼らの願いはパウロの抹殺でしたので、裁判においても様々な罪状を羅列しました。ただ、それは単なる作文であり、罪状を立証することが出来なかったとルカは記録しています。無実なものを告訴するとはこういうものだと痛感する場面でもあります。つまり、心情的なことを理由に相手を告訴しているのであって、実際の犯罪とか、被害とかを立証できなければ有罪にはできないわけです。

8節にパウロの弁明が出ています。それは簡潔かつ的確です。第一にユダヤ人が問題にしているように、パウロが律法を無視したことはないというのです。また、ユダヤ人の心のよりどころである神殿を冒涜したこともなかったのです。また、フェストゥスに対しては、皇帝への罪は犯していないと述べています。「これはたぶん、さまざまなローマの属州でパウロが騒乱を引き起こしたという告訴に対する弁明なのであろう。」[6] パウロの宣教活動は、非政治的なものであって、ローマ政府の政治に介入したこともなく、政府のやり方に反対したこともなかったのです。常識的に考えると、社会悪に対して発言し、不平等を撤廃し、戦争を無くするのがキリスト者の働きのように考えられます。しかし、どんな政府であっても、この世の仕組みは神が定めたものであるという意識がパウロにはあり、政治的な活動はしていなかったのです。政教分離です。「人は皆、上に立つ権威に従うべきです。神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです。」(ローマ13:1)ただし、パウロがユダヤ人社会の権威である祭司長や議員に従わなかったのはどうしてでしょうか。ルターも宗教改革の際には、ローマ法王に背きましたが、これはどう考えたらよいのでしょうか。神の義に反することにおいては、地上の権威に対する反抗ではなく不服従の態度を貫いています。イエス様の逮捕の際にも、剣を抜いて戦おうとした弟子たちをイエス様は戒めています。

法廷においてパウロの弁明を聞いたフェストゥスは、エルサレムでユダヤ人に言ったことと逆のことをパウロに言いました。つまり、裁判をエルサレムで受けたらどうかという提案をしたのです。「いずれにせよフェストは、このような取り扱いがパウロの同意なしには、正当化されないことを承知していた。」[7] フェストゥスにはそれを実行する気はなくても、言葉上で列席するユダヤ社会の重鎮たちを満足させようと思ったことだとルカは説明しています。やはり、複雑なローマの政治機構のなかで総督になるような人物は、人を惑わす話法に長けていたものと考えられます。この一言で、フェストゥスはユダヤ人たちの面子を保ち、カイサリアで裁判を継続するという事をパウロの意向によるものだとし、自分が前面に立つことを避けたのです。本当は治安的な配慮のためにカイサリアでの裁判を望んでいたのですが、それを敢えてくつがえして、ユダヤ人と対立するのを避けたのです。

こうした背景のなかで、パウロはフェストゥスが内心期待した通りカイサリアでの裁判を望みました。「二年間もいいかげんに扱われた裁判が、エルサレムに移されたからといって好転するはずもありませんでした。」[8] カイサリアでしか公正な裁判は期待できなかったからです。10節のパウロの言葉で、注目すべきなのは、パウロがこの裁判を「皇帝の法廷」と述べていることです。ローマ政府に対するローマ市民パウロの忠誠心が表現されているのでしょうか。パウロがローマ政府を批判している場面は聖書のほかの場面でも見られないと思われます。パウロにとって、ユダヤ人権力者には従う必要は感じなくても、ローマ法廷の権威は尊重していたということになります。そして、パウロは再度自分の無実を訴えます。11節で、パウロは自分に過失があるならば、その咎の責任を負う用意があると述べています。死ぬ覚悟さえあったのです。しかし、ユダヤ人の告訴は事実に基づいておらず、それには従えないと述べました。同じことがローマ政府についても言えるでしょう。権威に対する服従も、盲目的な服従ではなかったのです。信仰と理性によってパウロは判断する人でした。わたしたちの場合はどうでしょうか。信仰と理性において言うべきことを言う勇気を持っているでしょうか。

パウロは、フェストゥスの煮え切らない態度、自己利益のために節を曲げる態度をみて、彼が裁判官である法廷の限界を感じたことでしょう。「信仰者は、いつも政治に対して冷静でなければなりません。このエゴイズムの過程の中で、神の御旨が行われていくからであります。」[9] パウロは皇帝に上訴すると言いました。「上訴の権利はおそらくローマ市民にのみに限られていたことであろう。」[10] 臨在した人々の驚きはどれほどだったことでしょうか。確かに、ローマ市民としてのパウロには皇帝に上訴する権利があったのです、ほとんどすべての裁判が地元で決着がついているエルサレムの人々にとって、裁判をローマ皇帝のもとで行うことは、自分たちが采配を振れないことを意味したでしょう。パウロをローマにとられてしまうようなものです。「パウロはただ、無法にユダヤ人の憎しみにさらされることを警戒しようとしたのである。」[11] ただここで、ローマ行きが決まったことで、パウロの念願だった帝国の首都ローマでの伝道の道が開けたのです。パウロにとってそれは、イエス様の十字架の道(ヴィア・ドロローサ)と同じ道ではありましたが、自分の人生の最後の日まで救い主イエス・キリストの福音を伝えたいというパウロの気持ちは変わりませんでした。ただ、その時の皇帝はキリスト者を迫害しネロだったのです。パウロはネロに公平な裁判を期待したのでしょうか。「ネロの個人的な性格は別として、彼の在位の最初の5年間(紀元54年~59年)は、ネロの教師であった哲学者セネカの影響が帝国内の政治に反映され、アフレニウス・ブラスという誠実な皇帝護衛長官が存在し、小さな黄金時代とまで言われている。」[12] そして、パウロは途中で暗殺されたり群衆に撲殺されることなく、ローマ軍の部隊に護衛されてローマに向かう事となったのです。これも神の摂理と言えるでしょう。敢えて言えば、わたしたちがパウロにおける神の摂理を学んでいること自体が、わたしたちに対する神の摂理なのです。それは、争い多い世の中で、人々にキリストの平和の福音を知らせようとされている神の摂理です。

[1] 蓮見和男「使徒行伝」、新教出版社、1989年、330頁

[2] P.ワラスケイ、「使徒言行録」、ウェストミンスター、1998年、219頁

[3] L.マーシャル「使徒言行録」、エルドマンズ、1980年、383頁

[4]  前掲、蓮見和男「使徒行伝」、332頁

[5]   シュラッター「新約聖書講解5」、新教出版社、1978年、306頁

[6] F.ブルース「使徒言行録」、エルドマンズ、1954年、477頁

[7] 前掲、シュラッター「新約聖書講解5」、307頁

[8] 尾山令仁、「使徒の働き下」、羊群社、1980年、416頁

[9] 前掲、蓮見和男「使徒行伝」、332頁

[10] 前掲、L.マーシャル「使徒言行録」、385頁

[11] 前掲、シュラッター「新約聖書講解5」、308頁

[12] 前掲、F.ブルース「使徒言行録」、479頁

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