イタリア語を映画で学んでいます。「昨日、今日、明日」(イタリア語では、イエリ、オッジ、ドマニ)というDVDを借りてみました。ストーリー性のあまりない映画ですが、ソフィアローレンととマルチェロマストロヤンニが、ナポリ、ミラノ、ローマを舞台とした違った男女の物語を演じています。ソフィアローレンが高級娼婦の役を演じるのはローマを舞台とした物語です。その中で、神学校から休暇で帰って来た隣の家の善良な息子に、ソフィアローレンが屋根越しに会話したことで恋心を抱かせてしまい、彼女は後悔します。そして息子が気持ちを変えるまで商売はストップすると誓いを立てました。何も知らない恋人のマルチェロマストロヤンニが訪問してきたときに、誓いのために部屋の中に作った簡単な祭壇の前で、一緒に祈らせる場面があるのです。カトリックの祈りは「マリア様」で始まります。そしてソフィアローレンの祈りはとても短いものでした。「どうかわたしの罪を赦してください。」これは、究極の祈りかもしれないと思いました。単なる、娯楽喜劇映画なのに、やはり2千年のキリスト教信仰の歴史を持つ国の思想の深さを感じたわけです。よく、悪役をやっている本人は優しい人が多いといわれます。見てる人からも嫌悪感をいだかれ、自分でも憎しみを増大させて演技しているうちに、「こんな生き方はしたくない」と思うのでしょう。ソフィアローレンの演じる高級娼婦も同じではないでしょうか。お金はあるけど、神学生とか、その将来を心配する彼の祖母たちのような、家族関係を失っているのです。しかし、ここで神を知らない日本人なら、ただ後悔したり心を痛めるだけですが、さすがにイタリア人。懺悔すればどんな罪も赦されることを知っているのです。イタリア人が陽気なのは、その裏にこうした信仰心が根付いているからかなと思いました。考えてみれば、使徒パウロも、元来はキリスト教の迫害者であって、そうとうに残酷な事をしてきたと思いますが、彼が過去を悔やんでいるようなことは聖書には書いてありません。やはり、懺悔した過去はすべて清められていることを知っていたのでしょう。批判的な人からみれば、娼婦の懺悔やキリスト教徒の過去を問題にしない生き方は、実に無責任なものです。ただ、その人の唯一の問題点は、自分が責任ある生き方をしていいるという自負であり、自分自身の誤解です。そんな人はこの世にいません。ですから、神が裁くのは娼婦ではなく自称義人のファリサイ派の人々だったと聖書に書いてあります。そういう意味で、面白い映画でした。