使徒言行録28章17節 –31節 文責 中川俊介
パウロの一行はついにローマに到着しました。思えば長い旅でした。それだけに、到達したときの喜びは大きなものだったでしょう。パウロが未決の囚人であることなど忘れてしまいそうな大きな達成感があります。
ローマでのパウロの生活はそれほど制約されたものではありませんでした。護衛兵は一人付きましたが、ある程度の自由はゆるされていました。「パウロは、ローマで一人の兵隊に見守られていたので、会堂に現れてそこで説教を試みることは、できなかった。」[1] ですから、17節にあるように、到着の3日後にパウロは自分に与えられた家で集会を開いています。ローマのユダヤ人会堂の指導者たちを招いたのです。「ここでも。パウロがあれほど会いたがっていたローマ教会の兄弟姉妹たちにまず会わなかったなどとは考えられません。」[2] ただ、ここでローマ信徒たちとの感激的な出会いを記録するより、もっと大切と思われる神の民であるユダヤ人への伝道の結末をルカは最後に記録したかったのでしょう。「ローマ信徒への手紙は、この年である57年の初期に書かれている。」[3] さて、こうしたかたちで、指導者に伝道する方法は現代でも大切だと思います。伝道者が一人一人をケアするのも大切ですが、「わたしは、ひとりであなたたちの重荷を負うことはできない」(申命記1:9)とモーセが言って指導者に任務を分担したように、信頼できるものの助けをかりることも大切です。そこに、パウロが自分の使命の中で何を最優先していたかが現されていると思います。そこでパウロが述べたのは、彼自身がユダヤ教と一般社会の規則に関しては何一つ違反行為をしていないという事でした。わたしたちの記憶が正しければ、小アジアでのパウロの伝道に反感を持っていた人々がエルサレムで騒動を起こし、パウロを謀反人のようにして捕えさせたのです。それは、イエス様の逮捕の時にも似ています。本当の悪行ではなくても、一般の人は社会秩序を乱す者を排除しようとします。ですから、パウロは自分がそうした排除を受けたのであって、自分の側に落ち度がないことをローマのユダヤ人指導者たちに訴えたのです。彼ら自身もすでに色々な形でパウロ逮捕の状況を聞いていたと思います。ただ、こうしてパウロから直接聞くことが重要だったのです。
18節で、ローマの行政者が彼を取り調べた結果、犯罪とするような悪は何も見いだせなかったとパウロは弁明しています。「パウロの発言は極めて自己弁護的である。」[4] ただ、ローマのキリスト教会のためにも自分の無実の証しが必要だったのでしょう。そして、裁判においてローマ行政官はパウロを釈放することさえ考えたのです。しかし、実際には釈放できませんでした。それは、ユダヤ人の宗教権威や議員たちがパウロを有罪にし、処刑したかったからです。イエス様の場合、ローマ総督ピラトは、ユダヤ人内の議論に巻き込まれることを避けて、ユダヤ人に判決を委ねました。パウロの場合には、パウロがローマ市民権をもっていたために、違った状況になりました。パウロが皇帝に上訴することによって、パウロはユダヤ人権威者の悪意ある裁判から救われたのですが、ローマに護送されて皇帝の前で裁かれることとなったのです。それをパウロは19節で述べています。ただ、そのような状況であってもパウロは、同胞であるユダヤ人を非難する気持ちはなかったと述べています。彼のユダヤ人同胞への思いは深く、「肉による同胞のためならば、キリストから離され、神から見捨てられた者となってもよいとさえ思っています」(ローマ9:3)とさえ書いています。
20節を見ますと、集まったユダヤ人指導者の中には、キリスト教信仰のゆえに、パウロがユダヤ人への反感を持っているだろうと考えていた人々がいたことが推察されます。だからこそ、パウロは顔と顔を合わせて自分の真意を伝えたかったのでしょう。これは、教会でも大切なことです。噂話とか、配慮無き言葉は人を傷つけますが、顔と顔を合わせて誠実に語り合ったら真心が通じるのではないでしょうか。真実を伝える姿を、パウロから学ぶことが出来ます。勇気のいることです。しかし、必要なことです。
パウロの発言の中で、「イスラエルが希望していることのために、自分は鎖でつながれている」、というのは、救い主の到来、そして贖いの犠牲と復活のことを示しているのでしょう。パウロは、自分の投獄は、イエス・キリストへの信仰にたいする迫害だと理解していました。
そこで、居並ぶローマのユダヤ人指導者たちが発言しました。21節以下です。第一に、エルサレムから何の書状も届いていないし、公式見解も聞いていないという事です。彼らは、クラウディアス帝のもとで起こったユダヤ人退去令(49年)などもあって、エルサレムとは一定の距離を保とうとしていました。また、集まった者の中で一人もパウロを悪く思った人はいないのだというのです。おそらく、彼らはすでにギリシアや小アジアでのパウロの伝道活動のことを聞いていたでしょう。しかし、パウロに対して特に悪意を抱く者はいないというのです。ただ、22節には、キリスト教のことが「この分派」というかたちで述べられています。そして、ローマのユダヤ人指導者たちは、それが各地で反対を引き起こしていることに心を痛め、パウロから直接に内容を聞きたいと思っているという事でした。だとすると、集まった人々はイエス・キリストの福音に関しては詳しく知っていなかったことが考えられます。同じユダヤ人でも、すでに確立していたローマ教会との接触はなかったのかもしれません。
23節以下にはその後の出来事が記録されています。最初に来たのは指導者たちでしたが、その後、多くのユダヤ人がパウロの宿舎にやってきました。「当時、ローマにはユダヤ教の会堂が11もあったそうです。」[5] 彼らは、ユダヤ教とキリスト教の関係を知りたかったのでしょう。こうしたプロセスは日本の教会でも必要でしょう。日本の土着の宗教とキリスト教との関係を明確にする必要があります。なんとなく信じているなら、なんとなく信じなくなるものだからです。パウロは大勢の人を前にして、朝から晩まで教え続けました。その内容は3つの部分から構成されています。イエス様が「神の国は近づいた」と伝えていたことを第一に考え、何が変わったのかを捉えたのです。また、第二に、その論証は自分の考えによるものではなく、モーセ五書や預言書などの解釈によるものであり、救い主の到来が新天地を開いたと見るのです。パウロはそうした書物を暗記していたことでしょう。最後に、イスラエルで十字架にかけられて死に、3日目に復活されたイエス様が、まさにメシアであり旧約聖書全体の預言が成就したということです。興味深いことに、熱心なパウロの説得にも拘わらず、信じる者と信じない者とが分かれました。「ここでは二つの態度に出会います。一つは、率直に信じる人びと、またそれを拒否する人びとであります。どこでも、この二つはつきものであります。」[6] 神が彼らの心を閉じているのですからどうしようもありません。逆に考えると、心が開いて福音を受け入れることは、大きな奇跡であると言えるでしょう。
信じない人が去ろうとした時、パウロは聖書の引用を告げました。「彼らに対して、彼らの先祖たちが犯したあやまちを繰り返さないようにとの警告として語っていることばなのです。」[7] それはイザヤ書からでしたが、聖霊が語ったという事が強調されています。「それはイエスによっても引用されている言葉である」[8](ルカ8:10参照)その聖霊の語りかけこそ、パウロ自身が大切にし、また使徒言行録自体が最も重要視している神の働きだったのです。26節以下に引用句が書かれています。まさに、パウロの言葉を聞きながら、それを理解しなかった者たちのことが預言されていたのです。時代は変わっても人の心は同じです。福音に心が開かれるということは、一つの奇跡であると言えるでしょう。27節には、神がそうした人々を癒さないと書かれています。癒されているのか癒されていないのか。これは大問題です。ただ明確に言えることは、癒されていない人というのは、自分の中に癒しの必要性を持たない人、聖霊のうめきのようなものを感じない人のことです。
最後に、外面は経験であっても、神の国の癒しを必要としない人々、救い主を必要としない人々にパウロは告げました。その方法は、いにしえの預言者たちと同じでした。28節に決定的な事柄が書いてあります。それは、パウロの確信でもありました。「神の救いは異邦人に向けられた。」これほど驚くべきことがあるでしょうか。「パウロは福音が命と救いを異邦人に与えることを発見したのである。」[9] 神の民であるユダヤ人が、神の癒しに関心を示さず、神とは関係なく暮らしていた異邦人に救いの門が開かれたのです。「神の言葉は罪の診断を下し、それは聞いて受け入れることに痛みを伴うが、癒すために傷つけるのである。」[10] パウロは続けました。聞き従うことが大切だと。つまり、ユダヤ人は聞いているだけで従おうとしない。逆に、異邦人は聞き従っている。ここに福音の神秘があります。福音は全知全能の方法で人々を完全に悔い改めさせるのではなく、余裕を残しているのです。聖霊の働きなしには、どのように優れた人も、神の御国に入ることはできません。パウロ自身も聖霊によって生まれ変わるまでは、死んだ文字である律法に支配されていたのです。おそらく、首を振って去って行く人々の中に、パウロは昔の自分を見るおもいだったことでしょう。
最後の部分は、語調がかわり、穏やかな筆致となってすべてを締めくくっています。「パウロのローマへの到着は紀元57年であり、それはネロ皇帝の在位(54年~68年)の初期のころであった。」[11] 65年には大迫害が始まりましたが、嵐の時代の前夜ともいえる安定した時代でした。そして、パウロがこの家に2年間住んだことが記録されています。「この二年間に、今日わたしたちが知っているだけでも四つの手紙を書いております。それは、エペソ教会への手紙、ピリピ教会への手紙、コロサイ教会への手紙、ピレモンへの手紙です。」[12] それらは獄中書簡とよばれています。また、訪問者を歓迎し、そうした機会を用いてパウロは神の国を宣べ伝えました。ルカは沈黙していますが、この二年間にパウロは最大の伝道を行ったのかもしれません。「わたしたちは、毎日会う人たちに対して、ただ事務的なことばや挨拶を交わして、それで事を済ませてしまっているというようなことはないでしょうか。伝道は、伝道集会とか、訪問伝道とか、路傍伝道とか言って、身構えたときだけに行うものではありません。」[13] ですから、パウロは自分を救ってくださった主イエス・キリストについて、喜びをもって絶え間なく証したのです。つまるところ、伝道の働きは救いの実感と聖霊の満たしからくるものです。伝道は義務でなく、聖霊のあふれ出る喜びです。さて、ここで記録は終わっています。おそらく、パウロの裁判もあったでしょうし。パウロの処刑もあったかもしれません。1世紀のローマの司教クレモントは処刑にふれています。しかし、筆者のルカは、ここを最後として、パウロの生涯ではなく、イエス・キリストを伝えた一人としてのパウロを語り、後の世にそれを継承することを委ねているのです。「事実がどのようなものであったとしても、パウロの運命は福音以上のものではなかったのである。」[14] 聖霊の働くところには必ず、主イエス・キリストの証しが生まれてくることでしょう。その素晴らしい癒しは、やがて全人類を包み、一度は心を頑なにしたユダヤ人にも福音の花が咲いていくことでしょう。すくなくとも、それが、世の終わりに備える神の恵みなのです。最後になりますが、ここまで読んでくだった方々は、パウロたちと共に旅したのに等しく、すでに豊かな聖霊の働きがあると信じます。
[1] シュラッター「新約聖書講解5」、新教出版社、1978年、332頁
[2] 尾山令仁、「使徒の働き下」、羊群社、1980年、481頁
[3] F.ブルース「使徒言行録」、エルドマンズ、1954年、531頁
[4] P.ワラスケイ、「使徒言行録」、ウェストミンスター、1998年、242頁
[5] 前掲、尾山令仁、「使徒の働き下」、483頁
[6] 蓮見和男「使徒行伝」、新教出版社、1989年、350頁
[7] 前掲、尾山令仁、「使徒の働き下」、486頁
[8] L.マーシャル「使徒言行録」、エルドマンズ、1980年、424頁
[9] 前掲、P.ワラスケイ、「使徒言行録」、244頁
[10] 前掲、L.マーシャル「使徒言行録」、425頁
[11] 前掲、P.ワラスケイ、「使徒言行録」、244頁
[12] 前掲、尾山令仁、「使徒の働き下」、493頁
[13] 前掲、尾山令仁、「使徒の働き下」、492頁
[14] 前掲、L.マーシャル「使徒言行録」、427頁