印西インターネット教会

世の終わりについて学ぶ読む説教

「最後の最後」      ルカ21:5-19

今日は、教会暦で最後の日曜日です。来週からアドベント(待降節)に入ります。ルターは今日がこの世の最後の日であってもリンゴの木を植えると言いました。困難の中でも信仰と希望を持ち続けることの大切さを教えたのです。わたしたちも、この一年を振り返りたいものです。コロナ禍やウクライナ戦争を通して、神はわたしたちに何を伝えているのでしょうか。

さて、今週の聖書の日課は、「終末の徴」についてです。宗教は人々に幸せを約束し、神の祝福を告げるものだと考えられがちです。ところが、聖書が告げる終末とは、逆に、裁きであり、全てが決算される時でもあります。これを考えないと、宗教は現世の御利益のためになってしまいます。「家内安全、商売繁盛」ということです。しかし、最後の最後には人間が汗を流して築き上げたものが、すべて灰に帰する時が来ます。怖いことです。しかし、これは歴史的な真実でもあります。もし、ロシアが核戦争の火ぶたを切ったら、世界中は放射能汚染と大規模な破壊で苦しむでしょう。そうした現実がある中で、聖書は、現実世界から目を背けることなく、一見すると絶望のように見える滅びの時にさえ、福音を信じるように教えています。

新約聖書の書簡文の中で、パウロも終わりの時に備えるように教えています。「人々が無事だ安全だと言っているそのやさきに、突然、破滅が襲うのです。決してそれから逃れられません。しかしあなた方は暗闇の中にいるのではありません。他の人のように眠っていないで、目を覚まし、身を慎んでいましょう。」(第一テサロニケ5:3以下)これを理解するのは、自分がその渦中に落ち込んだ時には、難しいことです。おそらく人間の努力や理解力では無理なことであり、聖霊の助けを求めることによってのみ、理解できることだと思われます。

そして、世の終わりのしるしとして、イエス様は、神殿の崩壊を預言しました。この部分は小さな黙示録とも呼ばれています。何故ならば、世の終わりに関する教えが語られているからです。当時の世界の7不思議に入れられるくらいに、エルサレムの神殿は壮大なものでした。山を削って造営した土台だけで高さが30メートル、長さ500メートル、幅250メートルでした。その上にまた神殿の建物が数十メートルそびえていたわけです。その当時の誰がその偉大な神殿の崩壊を予測できたでしょうか。イエス様だけです。イエス様はこの壮大な建造物を眺めて、それには最後の破壊の時が来ることを予告しました。そして、それは本当にそのとおりになりました。やがてユダヤ戦争のときに、すべては滅び去ったのです。

さて次に、本文の7節以下では、弟子たちからの問いかけが記録されています。弟子たちの立場なら、そんな悲劇が起こるなら、それはいつなのか、兆候やしるしを知りたいと思うのが心情でしょう。わたしたちも同じです。そのとき、イエス様は「そういう暗い出来事はいつの世でも必ず起こるに決まっているが、おびえてはならない」と励ましたのです。また、人を惑わす偽りのリーダーが現れるといわれます。これには注意したいものです。特に、昨今は、海外でも邪悪な心を持った人が権力を握っています。あのエデンの園で、サタンの化身(アバターという意味)である蛇が、木の実を食べても「決して死ぬことはない」と嘘をいいました。そこで人類の始祖は神の言葉を信じない方向に持って行ったのです。偽りのリーダーはが惑わすのは、この点です。民衆に対して、人間的かつ功利的、魅力的な虚像を与えて、惑わすということです。そして、民衆の方も、頭の中が罪の支配を受けているので、騙されやすいのです。最近の本で、「影響力の武器」という本がありますが、そこにも民衆が心理的支配を受けやすいことが書かれています。

イエス様は、信仰的な立場から10節以下の世の終わりの現象を語りました。そこに書いてあるのは、平和ではなく、敵対と争い、天変地異、などの現象です。また、その前に迫害があると予告しています。これは歴史の中で実際に起こっています。しかし、イエス様はそうした迫害と辱めの時は、実は良い機会なのだと教えたのです。実に、すべての最後は、新しいことの始まりでもあるのです。「一粒の麦が落ちて死ななければ、多くの実を結ばない」(ヨハネ12:24以下)、なのです。自分に不利なことが、実は、神様の創造の働きを証明する機会ともなるのです。一つの小さな例が、森林火災です。森林が焼けて、そこに存在していた動植物が壊滅状態となっても、灰の中から新しい生命が誕生します。これは命の奇跡とも見えます。

続いて、14節には裁判の件が書かれています。誰かが裁判にかけられるとしたら、その前に、色々考えるでしょう。しかし、イエス様の教える信仰的な態度においては、かえって人間的な考えを捨てて、弁明の準備をしない方がよいのです。いわば無防備の立場です。終末に対しては、特に準備は必要でなく、無防備、無準備でいいのですが、その裏にあるのは、神の絶対愛への絶対的な信頼だといえるでしょう。勝海舟が「氷川清談」の中で同じようなことを語っています。危機に対する備えは必要ないのです。最後には神への信頼があれば十分です。イエス様のこの教えを実行した一人が、足尾銅山の公害と戦った、田中正三です。彼は最後の最後まで国家権力と戦い、心の糧としていたのは聖書でした。そして死んだときに持っていたのは、聖書だけでした。

15節で、イエス様は「どんな反対者も対抗も反論もできない、言葉と知恵を与える」と教えました。人間のすべての望みが消える最後に、言葉と知恵が与えられるのです。人間的に考えたら、みんなから捨てられたり、殺されたり、憎まれるような宗教はご免こうむりたいと、思うでしょう。ところが、イエス様は、表向きの平和ではなく、世の終わりや、世界の崩壊というものを予見することができました。イエス様を信じる人々も、そのことによって、全ての人に憎まれることになったわけです。友達や家族に憎まれるくらいなら、イエス様を信じることはやめようと思って人もいたはずです。

わたし自身も、神の絶対愛を信じたときに、このことによって他人から敬遠されることもあるだろうなと思いました。しかし、イエス様の教えは、人間が人間に捨てられても、決して捨てることのない創造神の絶対愛を示すものでした。それが、18節以下です。

最後に、イエス様は不思議なことを教えました。わたしたちの髪の毛一本もなくならないというのです。イエス様は髪の毛の喩を、聖書の他の部分で語っています。空の鳥を見なさいという喩の箇所です。鳥は何も功績がないが、神は小鳥の様は小さな命も愛してくださり忘れられていない。髪の毛すら一本残らず数えられている。(ルカ12:4以下)裁判にかけられることも恐れてはならない。つまり、世の終わりである終末を怖れてはならないのです。神殿の崩壊を怖れてはいけない。家族の崩壊を怖れてはいけない。社会の混乱と崩壊を怖れてはいけない。どんなことも決して怖れてはいけない。イエス様は大丈夫だと約束しています。どんな困難にも当惑しべきではない。失われるものはなにもない。何故ならば、神がわたしたちと共におられるからです。この思想は、出エジプトの時にモーセも体験したものでもあります。「主はあなたを見放すtことも、見捨てられることもない。恐れてはならない。」(申命記31:8)わたし自身も、50年に及ぶ信仰生活で何度も体験しました。100歳を超えて、コロナに感染したにもかかわらず完治した母親の信仰にもこれは顕著です。神共にいますこと、これほど心強いことはありません。それを多くの人に知ってほしいのでこの記事を書いているわけです。

さて、わたしたちは、今日、小さな最後の日を迎えました。でも、大丈夫です。神さまがこの聖書を読んだ人と共にいてくださいます。これを読んだことは、偶然ではなく、神のお導きでもあります。特に、ネットを見ていて、偶然にクリックしたさきが、印西インターネット教会だったとしたら、それは神の働きとしか思えません。神は、そうした出来事を通して、わたしたちに真実の救いを示されるのです。

物事の最後や、死や、別離や、喪失という体験はつらいですよね。でも、わたしたちの苦しみをまるで自分の苦しみのように感じて下さっているのが、神の絶対愛です。この絶対愛を知ることが、同時に、共にいて下さる神を知ることなのです。「預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう。しかし、信仰と、希望と、愛、この三つはいつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。」(第一コリント13:8以下)パウロもこれを体験しました。この絶対愛があったら、どんな困難があっても、もう安心です。

「神はわたしたちを怒りに定められたのではなく、わたしたちの主イエス・キリストによる救いにあずからせるように定められたのです。」(第一テサロニケ5:9)喜びなさい、あなた方は命を勝ち取りなさいとイエス様は教えました。教会暦の終わりである今日、最後の最後の日に、いつまでも残る、神の変わらない存在、神の絶対愛を受けとり、感謝しましょう。「あなたの絶対愛を信じます。どうぞお与えください」と祈るだけでいいのです。そして、アーメンととなえます。このアーメンとは、その通りになりますようにという信仰の言葉です。

わたしたちは、滅んでいく古い世の建造物、古い家族関係、古い社会、これを惜しんではいけないのです。神は試練を通して、すべてを新しくしてくださいます。神の絶対愛を知らないときこそが、破壊であり絶望なのです。神のもたらす終わりとは、破壊や死の終わりであり、つまり、新生なのです。焼け野原から誕生する汚れなき命の復活です。

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