「ダビデの子にホサナ」 マルコ11:1-11
今日からクリスマスを待ち望むアドベントに入ります。ルーテルやカトリックでは待降節、聖公会では降臨節と呼びます。アドベントは到来という意味のラテン語を語源としています。また、顕現節の意味のエピハネイアというギリシア語と同じ意味です。救い主の到来を記念する教会の季節であり、教会の一年の始まりです。この時期は断食と悔い改めの期間として守られてきました。ですから、説教台の布の色も受難節と同じ紫となっています。また、クランツは4つのローソクがクリスマスまでの4週間をあらわし、丸いもみの枝の輪がイエス・キリストの戴冠、つまり王なる冠をあらわすものです。約3千年前のダビデ王はこの世の王様でしたが、その子孫として生まれたイエス様は、救い主としての王冠をつけて到来するというのがアドベントの意味です。
この日の聖書の個所も特別なものです。特にマルコの福音書は、4福音書の中でも最も古く、最初に書かれた福音書です。もし、福音書がなければ、わたしたちはイエス様のことについて何も知ることはできず、救いということを理解できなかったでしょう。いや、福音書を持っていたとしても、それを開かなければ救いを理解できません。また、開いたとしても、霊的な知識がなければ理解できません。使徒言行録を見ますと、エチオピアからユダヤにきた政府の高官が聖書の中のイザヤ書を読んでいたがどうしても理解できませんでした。そこに、12使徒の一人であったフィリポがきて意味を説明し、「イエスについての福音を告げ知らせた」(使徒8:35)とあります。エチオピア人は福音を悟って、すぐにその場で洗礼を受けました。福音書の中心はイエス・キリストの救いです。このアドベントの季節に、わたしたちはイエス・キリストの福音を心から喜んで迎えたいものです。また、洗礼の意義を覚えたいものです。ルターもこう言っています。「この教えに関してはいつも生徒のままである。毎日私は初級の聖徒のようにキリストの言葉を学んでいる。」すでに知っていると思うのはサタンの誘惑であると思います。
それを、注意して最古の福音書であるマルコの福音書から、イエス・キリストの福音、救いの知らせを聞きとらせていただきましょう。
最初にイエス・キリストの福音の初めと書いてあります。この言葉に既に福音があります。なぜならば、ナザレの村の出身で大工さんをしていたイエス様が世の救い主、メシアでありキリストだというのです。神の子がこの世に到来されたということです。何か難しいことを理解したら救われるのではありません。イエス様という罪なき方が、十字架にかかって自分の罪の身代わりとなってくださったこと、復活されたこと、それが救い主の役割だったこと、この救い主の贖いを信じるというところに福音があるわけです。しかし、それは多くの困難を生み、多くの人々の反感を買い、弟子たちも聖霊の助けなしには、信じることができなかったと、マルコは伝えたいのです。
最初の部分である2節の「道を準備する」というのは救い主の到来に関する期待を表しています。4節には、救い主の到来は悔い改めと同時並行することが教えられています。その悔い改めのしるしは、人間的な反省や後悔ではないのです。聖書は洗礼が悔い改めの印だと教えます。であるとすると、ルターが言っている日ごとも洗礼、それは常に洗礼という悔い改めの原点に回帰することではないでしょうか。心と意思、そして行動が変えられることです。この変えられるということが、自由となること、奴隷解放されるという意味です。つまり、人間とは様々な重荷を負い奴隷状態になっている。そこで、イエス・キリストを信じ洗礼を受けるときに、完全に自由になることです。救いというのは神のもとに帰って、自由になることです。
この悔い改め、方向転換は、神の賜物です。自分の決心によるものではありません。むかし、5世紀の神学者ペラギウスは人間が自分の責任において行動し救いに至ると教えましたが、アウグスチヌスはそれは無理だと考えました。アウグスチヌスは神の恩寵に身をゆだねることのみ救いの道があると考えました。ルターもアウグスチヌス派の修道士でしたし、この考えでした。
マルコの福音書で、荒野という言葉が、3節にも4節にも書かれています。これは、モーセがイスラエルの人々を導いて奴隷にされていたエジプトを脱出して40年間荒野で苦労したことと結びついています。荒野の果てに約束の救いの土地に入ったのです。わたしたちの人生の荒野も決して無駄な期間ではありません。それは救いに至る準備期間です。神さまは、すべてが順調に運ぶ場所ではなく、飢えと困難、無力と失望のなかで、信仰という霊的な力を養ってくださるのです。それは神の愛の訓練です。洗礼者ヨハネはこうした厳しさのなかで、救い主の到来に備えるように教えました。
9節以下にイエス様の洗礼の記事があります。これはイエス様が一体誰であったかが示されます。神に愛された人。神の心にかなった人です。神の子です。それは、イエス様の先祖であったダビデ王がそうでした。ローマ書に、この福音は御子イエス・キリストに関するもので、御子は肉によればダビデの子孫であったと1章に書かれています。ダビデも神に愛された人でした。イエス様も神に愛されました。そこで終わってはいけない。クリスマスが喜びの季節であるのは、神さまの愛が、ダビデやイエス様と同様にわたしたちにも注がれていることを理解する必要があります。このことは、ガラテヤ書3:26にあるように、信仰によってイエスキリストに結ばれて神の子である。わたしたちも神に愛された人。神の心にかなった人です。神の子となっている。霊的にイエス様の子孫でありダビデの子孫であり、アブラハムの子孫なのです。そして、神の絶大な財産を賜物として受け取るものなのです。
第一コリント1:7「その結果、あなたは賜物に何一つ欠けるところがない」と書かれているとおりです。わたしたちの口にはホサナ、ホサナととなえられるでしょう。それは、ダビデの子孫イエス・キリストよ救い給え、あなたと同じように何一つ欠けるところがないものにしてくださいという祈りです。愛の神は必ずこの願いを聞いてくださいます。ダビデがたった5つの石でゴリアテというペリシテ人の巨人兵士と戦ったように、イエス様がたった5つのパンで五千人の飢えた人々を養ったように、わたしたちも神に愛された子供として、ダビデの子孫として、5つの指で偉大な神の働きをすることができます。何も欠けるものはないのです。クリスマスはこの神の賜物をイエス・キリストへの信仰を通していただく喜びの時です。