印西インターネット教会

クリスマスの神学的意味は自己否定の神秘

「違う、違う、違う」      ヨハネ1:19-28

洗礼のヨハネはその素晴らしい働きで有名になったのでしょう。彼は、荒野にいましたが、エルサレムから重要人物が派遣されてきました。彼らは祭司階級の者や神殿での責任を持っていたレビ人たちでした。そして、ヨハネに訪ねました。あなたは誰ですか。つまり、もしかしたらメシア(聖書に預言されている救い主)ではないのですか、と聞いたわけです。その時に、ヨハネは単に答えたのではなく、「公言した」つまり証しを行ったと聖書は記録しています。この点が重要です。単なる答えではなく、神に対する証しとしてヨハネが答えたのです。それは信仰告白になっていました。信仰告白とは、「神の啓示に同意する」という意味があります。ヨハネは神の働きを信じていましたが、「自分は来るべきメシアではない」と信仰告白したのです、メシアであった方が彼には有利だったかもしれません。多くの人の尊敬を受けたかも知れません。しかし、ヨハネは神の示した事実に従って、自分はメシアではない、自分は違う人物であり、自分には違う役割があると言ったのです。しかし、そこでユダヤ人たちの質問が終わったのではありません。ユダヤ人たちは、ヨハネの活動に混乱させられていたのでしょう。どうにかして、ヨハネがどういう人物かを判断し、その後で処分の方法を考えようとしたのです。

さて、このような聖書箇所が、喜びの季節であるクリスマスの前に来ること自体が不思議なことです。ただ、何度も既に話していますが、イエス様がこの世にお生まれになったのは、罪多きわたしたちのために受難するためでした。この受難に関しては、どうしてもイエス様と洗礼のヨハネのことが除外できないのです。

ユダヤ人は神がかりの人であったヨハネを迷惑に思っていたし、何かの形で処分したかったわけです。同じように、彼らは神の人イエス・キリストを十字架にかけて処分しています。さて、ヨハネがメシアではないと聞いて、ユダヤ人たちは少し安心したと思います。何故なら、当時の、宗教的なファリサイ派の理解では、洗礼はメシヤが来臨した時に行なわれるか、あるいは、その直前にエリヤが来て行なうはずのものだったからです。そこで彼らは、追求をあきらめませんでした。何故なら、ヨハネが神の人なら自分たちは害を加えることが出来ないからです。彼らは再び尋ねました。では、ほかの預言者ですか。ヨハネは、いや違うとまた答えました。じれったくなった、彼らは、「自分たちを送り出した人々に報告しなくてはならないので、あなたは何者なのかを教えてくれ」と要求しました。もう三度もヨハネは違うと言いました。メシアとは違う。エリヤとは違う。預言者とも違う。そこで、ヨハネは自分は荒野の激しい叫び声だと言いました。何という興味深い表現でしょうか。荒野だけでも、何の価値もない存在ですが、その中の単なる声だと言うのです。そして、その後にある「主の道をまっすぐにせよ」、この有名な言葉の意味は、道路工事ではありません。主の道の方向性をとりなさい、また、道とは生き方のことですから、神の生き方に真正直になりなさいという意味のイザヤの言葉の引用です。ここには大切な2つのことが強調されています。一つは、神の道、神に従った生活の仕方、ここに忠実になることです。もう一つは、方向転換(悔い改め)であって、自己中心から神中心の考えに向かう事への奨励です。おそらくそれは、ヨハネ自身の生き方だったのでしょう。ですから、ヨハネは、自分の事を荒野の叫び声だと言い表したのです。自分は、メシアとは違う。自分はエリヤとは違う。自分は預言者とは違う。「違う、違う、違う」と繰り返して、自分は無であること、荒野の叫び声であると強調したのです。

荒野の叫び声の深い意味を理解できなかったのは、エルサレムから送られてきた祭司階級の者や神殿での責任を持っていたレビ人たちでした。彼らは何故、ヨハネが「違う、違う、違う」と繰り返して、自分は無であること、荒野の叫び声であると言い表したのかが理解できませんでした。彼らにとって無であることが重要なのではなく、何者かであること、メシアだとか有名な預言者であることが重要だったのです。だから、彼らは言いました。もしそういう重要人物ではないのなら、どうして洗礼を授けるのか。そんな権威はあなたにはないだろう。あなたは無に過ぎないし資格がない。そう言ったのです。

そこで、ヨハネは答えました。「水の洗礼ですか。これには意味がありません。あなた方の誤解です。それほど重要ではありません。」あなた方の間に立っている(共同訳では、おられると訳されている)人がいるというのは、一つの言い方で、座ったり立ったりではなく、一つの方向に向かって決意を表わしている、つまり神の方向から決してずれない方がおられると言う意味です。自分にはその人の靴ひもを解く価値もない。ここでも、ヨハネは「違う、違う、違う」と自己否定しています。自分ではない、自分は水で洗礼を授けているが、その神の方向に向かって堅い、ゆるぎない決意を表わしている本当のメシアは、聖霊によって洗礼を授けると信仰告白したのです。この聖霊がでて来ると、エルサレムからきた重要人物たちは理解不能でした。家庭でも社会でも、教会でも同じです。どの団体でも重要人物の問題点は「違う、違う、違う」と自己否定することが出来ないことです。「違う、違う、違う」という言葉が他者に向けられているわけです。

ここが大切な点ですが、ある宗教学者がこう語っています。「キリスト教の問題点は、この聖霊を受ける段階に達していないことにある。水の洗礼は受けている。ただ、聖霊の洗礼を受けている人は、100人中で95人くらいかも知れない。教会では、愛が教えられる。政治が正しくされることも問われる。しかし、聖霊レベルの癒しが現れない。モラルが優先して、自分が何かをしなければ救われないと思い、信仰が自分中心になってしまう。」そして、その宗教学者は、自己中心性は、実は親から来ていると言っている。そしてある中学生の言葉を引用している。「14年間、父の無能を吹き込まれ、やっとわかった母の愚かさ。」親がヨハネのように無になれていない。親が自己否定できていない。自分を何者であるかのように思い、エルサレムからの重要人物のように、やがては、ヨハネを殺害し、イエス様を十字架にかける者となってしまう。

逆に言うと、わたしたちにできる最善なことは、ヨハネのように、「違う、違う、違う」と自己否定を繰り返し、自分の道ではなく、神の方向に転換すること、つまり悔い改めではないでしょうか。他者を批判するのではない。自己を先ず否定すること。聖霊というのは、自己否定の時のみ与えられる恵みだからです。クリスマスのお祝いの根本は、自己を否定して、本当の救い主の道に方向転換させていただき、心にキリストが誕生するところにあります。

わたしたちは一体誰でしょうか?聖書は、「傷ついた葦であり、くすぶる灯心である」(マタイ12:20)と教えています。ヨハネも自分は無であること、荒野の叫び声であると言い表したのと同じです。逆に自分が誰なのかが判れば人生問題も解決したのと同じです。聖霊が降るからです。神の聖霊がくだれば、幸運な時もそれが自分の功績によるものではないとわかり、困難試練も自分のものではなく、神が負ってくださることがわかり、靴の紐を解く値打もないような自分が、世の救い主であるイエス・キリストを心に宿しているのがわかるでしょう。聖霊を受けたパウロは書いています。「わたしたちは自分自身を宣べ伝えているのではなく、主イエス・キリストを宣べ伝えているのです」(第二コリント4:5)自分が無であるが、キリストが内住しているからこそ、聖霊を受けキリストと結ばれるのです。聖霊によるキリストの誕生という、このクリスマスの恵みは、今日もわたしたちに豊かに与えられています。

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