H3ロケットの打ち上げが行われなかったことの記者会見で、JAXAの代表者は、安全装置が働いてブースターの着火信号が送られなかったので、自分たちは中止と考えていると言いました。共同通信の記者は、カウントダウンまでしているのだから、これは失敗というべきではないかと詰問しました。JAXAの代表は終始おだやかに対応していましたが、共同通信の記者の否定的な発言にネットでは批判の声が上がったそうです。ただ、この会見のビデオを見れば、双方に理があるように思えます。共同通信の記者が言うように、中止というのは、意図的に止めるものです。「明日は天気が悪化する予報がでたので遠足は中止します。」「この計画は予算のめどがたたないので中止します。」などにおいても、予測可能な困難を事前に察して、行動をやめることを中止と言うのではないでしょうか。その意味では、JAXAの代表が言っていた通り、ロケット内部の装置が異常を検知し、このままでは危険な状態になると予測して、着火信号をださなかった、というのは中止という意味にも理解できます。しかし、機械が中止したというのは、自動的な作用であって人間の意図的なものではなく、ロケット内部の機能に未知の故障があったということですから、打ち上げに失敗したとも言えなくはありません。それに、失敗か中止かでは、評価も大きく違ってきます。どちらの側にも言い分があるのですが、わたしの意見では、失敗でも中止でもなく、機械の危険察知によって打ち上げは「中断」されたと言えばよいのではないでしょうか。これなら両者の言い分を否定することはありません。JAXAの代表者が言うとおりに、ロケットは再度整備して使えるので、何も失ったものはありません。その面で、失敗ではないのです。また、共同通信の記者が強調していたように、カウントダウンまで行って、それを見学に来ていた人たちもいたことですから、本当に中止なら、事前に報告すべきことがらです。旅費を払って遠くからやってきた人たちはガッカリしたと思います。中止なら、もっと早くに知らせてほしかったと思うでしょう。遠足だって、中止の場合には、準備して次の開催を待つものです。H3の場合には、すべてが既に動き出していたのですから、遠足でいえば、「バスが故障して遠足は中断された」という表現に似た状態だだったと思います。途中まで動き出しているのに、中止と言う言葉は適切ではありません。ただ、遠足が失敗したということならば、それは事故になってしまったということです。これはH3には当てはまらないようにみえます。機械の警報によって着火信号は送られなかったけれども、機体は安全であり再利用できるからです。長くなりましたが、記者会見のビデオを見ていてこんなことを思いました。でも、確かに適切な表現というものは大切です。言葉で人間は励まされたり、傷ついたりするからです。その面では、キリスト教は言葉の宗教です。聖書にも、「初めに言(ことば)があった、言は神と共にあった、言は神であった。」(ヨハネ福音書1章1節)と書いてあります。言葉を悪用するのが、詐欺であったり、カルトであったり、扇動だったりするのです。人間は言葉によって行動するのですから、言葉は、人間の行動の原点にあるプログラミングのようなものです。現代的に聖書の言葉を翻訳すれば、「神はプログラミング(ギリシア語でロゴス)である」といえるのかもしれません。正しいプログラミングがあってこそ、正しい行動が生まれるからです。そして、「原罪」とはプログラミングの誤りともいえるでしょう。そうした、言葉の深い意味を考えるうえで、今回のJAXAの会見はとても有意義でした。「H3の打ち上げはは安全装置が作動したことによって中断されました。」