印西インターネット教会

決して見捨てない神の絶対愛を知るための説教

「自己犠牲の人」         マルコ10:32-45

今日の福音書の日課はイエス様が十字架の死を予告した部分と、弟子たちが高い位につきたいと願ったという部分が一緒になっています。これは対照的です。十字架は自己犠牲のしるし、弟子たちの願いは自己肯定でした。人間とは自分が第一です。勉強でもスポーツでも同じです。わたしたちは弟子たちと同じでしょう。ただイエス様は違いました。後の部分の最後の方に「多くの人の身代金として自分の命を献げるために来た」という箇所があるので人類の罪の借金を、身代りになってゼロにするという、自己犠牲の精神をあらわしています。

旧約聖書の日課である創世記28章には、兄を裏切って長子権を横取りした罪深いヤコブが故郷を追われて、お母さんの実家のあったハランという町、現在のシリア北部まで逃げていくときの体験が書かれています。ヤコブは、遠くて孤独な旅の途中で、夢の中で神の声を聞いています。それは「あなたの子孫は砂粒のように多くなり、東西南北に広がり、地上の人々はあなたの子孫によって祝福に入る」というものでした。罪があってもあなたを祝福すると神が言われたわけです。子孫からイエス様です。お兄さんのエサウを騙して、長子の権利を奪ったのはヤコブです。社会的、倫理的に考えたらヤコブが悪いわけです。しかし、後に、ヤコブは神から名前をもらって、イスラエル(神と人とに戦って勝つ者)(創世記32:29)と呼ばれるようになりました。

さて、弟子たちとエルサレムに向かったイエス様は、エルサレムで「侮辱され、唾をかけられ、鞭い打たれる」ことを既に知っていました。ここに示されているのは、救いとはなにかという大きな問題です。旧約の日課である創世記28:15に、「あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない」と書いてあります。救いとは神が決して見捨てないと確信することです。神の愛を最後まで信じることです。

イエス様は、その神の絶対的愛を知る人でした。ですから、33節の言葉、「侮辱し、唾をかけ、鞭打ったうえで殺す、そして三日の後に復活する」と語り、ヤコブの場合と同じように、神が決して見捨てない方であると知っていたのです。

次の部分である、35節からは、弟子たちの無理解が描かれています。マルコ福音者は弟子たちの無理解を強調します。弟子たちは当時、己を捨ててゼロとすること、つまり自己犠牲や、神の愛の深さを理解できませんでした。弟子たちの身勝手な願いにたいして、イエス様の態度は「何をしてほしいのか」、という聞く姿勢で首尾一貫していました。自分が何をしたいのではなく、相手の立場を第一にしているわけです。すぐ後でも、51節で盲人に対して「何をしてほしいのか」と尋ねています。この繰り返しは偶然ではないと思います。その言葉には叱責ではなく優しさと親しみがあります。イエス様は人間の罪を知っていましたが責めません。十字架にかかるまえに、イエス様は、「今夜あなたがたは皆わたしに躓く」、と言いました。ペトロも他の弟子たちもそれを否定しましたが、イエス様は責めませんでした。むしろ、あたたかく諭しています。

そこで、40節でイエス様が言われた、「わたしが決めることではない」という表現はとても大切です。自分が決めないで、自分を殺すのも自己犠牲です。神に一任して、神の定めに従う姿です。信仰者の姿の見本は自己犠牲です。

聖書が伝える神の愛とは、神がヤコブのように決して正しくはない者、罪人にも仕えてくださることです。それも、普通の仕え方でなく、身代金として命を与える仕え方です。この身代金の意味は、負債だけではなく捕虜、奴隷、犯罪者などを賠償金で買い戻すこと、自由にする意味です。悪魔の奴隷となり怒りと殺意に狂った犯罪者に等しい人を、愛の人にするのです。

ヤコブはゼロであり寂しい旅をしていましたが、神はそのヤコブに子孫をあたえ、その中から救い主イエス・キリストを生まれさせたのです。そのキリストの十字架の意味について、内村鑑三、明治時代の、代表的日本人クリスチャンの一人、内村鑑三氏がこれを書いています。「私は或る時、私の目下の者どもに辱められます時に実に耐え難く思います、私はどうしてもその人を赦すことは出来ないように感じます、私はどうかしてその人に私の受けた侮辱を報いたく思います。私には人を赦す能力はありません、しかしながら私はこれを私の救い主から受ける事ができます、私は彼に頼って何人でも赦すことができます、私が赦すのではありません、私の救い主が私によって赦されるのであります、そうして私の救い主の赦される人を私は自由に赦さなければなりません。私共はまた身に多くの侮辱を受けて始めて、キリストの十字架の苦しみを推し量ることができるのであります、もし私共がキリストの心に入らんと欲するならばキリストが受け給いしような同じ侮辱を、私共も身に受けなければなりません。」受難節にはこれを覚える必要があります。例えば、マタイの福音書では人々が王の杖の代わりに持たせた葦の棒を取り上げ、イエス様の頭をたたき続けた、とあります。わたしたちは手の釘痕とか脇腹の傷に注目しがちですが、頭の傷はどうでしょうか。頭に対する侮辱は、ユダヤ人であったイエス様にとって最大の侮辱だったと思います。それをイエス様が無言で受けられたとは何を意味するのでしょうか。救い主が代わりに耐え難い屈辱を耐え、自己犠牲となり、憎しみが憎しみを呼ぶ悪が連鎖する罪の世界を終わりにしてくださったということです。

この世にクリスチャンが多くいたとしても、内村先生が言う苦しみを甘んじて受けるクリスチャンは多くはないと思います。弟子たちもそんな、浅い信仰でした。十字架の刑罰の時、頭を叩かれ茨の王冠が突き刺さり血を流したイエス様を見て、みんな逃げ去りました。イザヤ書53章には「彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている」と書かれています。しかし、イエス様の血だらけの自己犠牲の姿は脳裏に焼き付きました。そして、やがて、聖霊の導きによって自分たちも血だらけになって神の愛を伝えたのです。殉教者と言うのと、証し人は同じ言葉です。

自己犠牲は自分を捨てることです。神様は神を離れた罪深い無の世界に、自分を捨てた尊い救い主イエス・キリストをたった一人与えてくださって、世界中に福音を伝えたのです。福音を知ったヨハネが書いています、「イエスはわたしたちのために命を捨ててくれました。それで愛を知りました。わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです。」(第一ヨハネ3:16)

それを実行した人々がいました。キリスト教の2千年の歴史には多くの例が見られます。洞爺丸事故の人命救助。1954年に青函連絡船洞爺丸が沈没して1155人が亡くなった。その中の一人アメリカ人、リーパー宣教師とカナダ人ストーン宣教師が自分の救命胴衣を日本人の子供に与え、自己犠牲となって死んだ。リーパー宣教師は、まだ結婚して子供ができたばかりでした。やがて残された子供は成長し、広島の原爆資料館の館長になったそうです。親の思い、キリストの思いが引き継がれたのです。

愛は自己犠牲です。イエス様は、その神の絶対的愛を知る自己犠牲の人でした。神はわたしたちにも、あなたは嘲られる人、侮辱される人になって、イエス様の思いを知りなさいと諭しているように思えます。イエス様は言うでしょう。わたしも唾をかけられ、頭を叩かれ侮辱されたよ。しかし、あなたは勇気をだしなさい。わたしが自己犠牲を大きな祝福に変えるから安心しなさい、と告げてくださっています。これを信じましょう。

 

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