印西インターネット教会

有限なる世において永遠について学ぶ説教

「銀河の彼方に永遠に」        ヨハネ10:22-30

今日の聖書の記事は神殿奉献記念祭に関するものです。神殿奉献記念祭というのはヘブライ語でハヌカと言って、丁度、クリスマスに近いので、ユダヤ人の家庭ではクリスマスのかわりにハヌカを祝います。ユダヤ人の子供たちもお祝いは好きですからね。そのとき親は、我が家にはクリスマスはないけどハヌカがあるからと言えるのです。ハヌカの歴史といえば、イエス様の時代の150年ほど前にさかのぼります。ですから、紀元前150年です。当時、イスラエルはシリアの王国に支配されていて、神殿は異教の礼拝で汚されていました。それをマカベアの一族が反乱を起こしてシリア軍に勝ち、神殿を奪還して清めたことが、このお祝いの始まりです。ただ、イエス様はもっと深いところを考えておられたのです。つまり、外側の神殿の清めではなく、人間の心の深くの清めが大切なことを教えたのです。愛と命のない滅びと罪と死の世界(わたしたちの現実社会)から、命の世界(救われた人々の社会)に移らなければならないということです。罪に穢れた人類の心に神殿があるとしたら、そこは偶像で満ちています。その清め(ハヌカ)は、十字架の贖いによって永遠の命に回復していただくことによって実現するのです。

視点を、イエス様の時代の神殿に移してみましょう。奉献記念祭なので大勢の人々が神殿に参拝にきていたことでしょう。記事に出てくるソロモンの回廊は、神殿を囲むかたちになっていいました。日本では古いお寺、たとえば薬師寺などが同じ形式です。シルクロードを経由して日本にまでこの建築様式が伝わっていますね。エルサレムの神殿も回廊も、立派なものでした。ただ、イエス様は、ある種類の危険な人々にとり囲まれました。彼らの心には、殺意がありました。パウロも書いています。「彼らは神を認めようとしなかった。だから、神は彼らを無価値な思いに渡された。悪意、妬み、殺意、陰口をいい、人をそしり、人を侮り、親にさからう。」(ローマ1:28以下)つまり、これはパウロの反省の言葉でもあります。以前は、パウロも、自分は神を信じていると思い込んで、キリスト教徒を迫害していましたが、その時は、悪意、妬み、殺意に満ち、陰口をいい、人をそしり、人を侮って生きていたのです。憎しみや怒りにかられた殺意の原因は、神を認めようとしないということです。原罪です。これは、誰にでも起こる心の状態です。パウロも、「正しいものは一人もいない」(ローマ3:10)わたしたちに優れた点はないと言っているとおりです。つまり、イエス様を殺そうとしたユダヤ人、あるいは現代のウクライナで一般市民を殺害する人々と、平和に暮らすわたしたちとの間に、教理的には大きな違いはないのです。恐ろしいことです。聖書は、人間の存在を限界まで、つまりその底の部分まで見つめているのですね。

さて、ソロモンの回廊で自分をとりかこんだユダヤ人に、イエス様はどのように話したのでしょうか。イエス様は「あなたたちは信じていない。」と二回繰り返しています。彼らは、ユダヤ人社会の中で最も優れた人たちでしたが、イエス様が救い主であり、メシアであることを信じていませんでした。信仰と教養とは関係ないのです。彼らの心の底には、原罪が巣くっていました。実は、ハヌカのテーマである永遠の命の問題は、外側の神殿の清めではなく、人間の心の中の神殿の、罪の清めの問題だったのですね。

だいたいわたしたちは、永遠の命というと、死なない事だと考えがちです。これは間違いです。ただ、聖書では、死ということは罪の結果だと書かれています。すると、永遠の命とは、単に生物学的に死なない事ではなく、死の原因である罪から清められていることだと分かります。では、その罪とは何か。イエス様を取り囲んだユダヤ人も、罪の影響でイエス様を憎み殺そうと考えました。その殺意のもとになった罪は、わたしたちが怒ったりむかついたりする罪とかわりません。ですから、前述のようにパウロは、「正しいものは一人もいない」(ローマ3:10)と書いているのです。罪を持っている事、それが人間性なのです。神を知識としては知っていても信じてはいない。これが罪の姿です。何故こうなってしまうのでしょうか。まるで遠くの神を望遠鏡で見ているだけで、神と共にいないということが罪だからです。

太古の昔、人類の祖先は神と共にいました。場所はわかりますね。エデンの園です。そこで、人類の祖先のアダムとイブは神の命令に背いて知恵の木の実を食べて、罪を犯しました。これを最初の罪だから原罪といいます。それから、命の源である神から離れて暮らすようになりました。命から離れているのですから、当然、死ぬことになりました。彼らの人生には、喜びよりも苦しみが多くなりました。これも罪の結果です。

罪は命である神から離れてしまったことです。しかし、わたしたちのまわりにも罪に汚されていない生命体があります。死なない生命体、永遠の命の生命体と言えば何でしょう。わたしが以前に牧会していた八王子教会から遠くない高尾山に登ると分かります。そこには、樹齢6百年にもなる杉の木がそびえています。木には永遠の命があります。条件さえよければ何年でも生きています。それは遺伝子DNAの鎖であるテロメイアが人間とは違うからです。人間の鎖は20数個で切れてしまいます。ですから、老化して死ぬわけです。しかし、木の場合にはDNAの連鎖がいつまでも続きます。人間より木の方が優れているなんて、信じられない人もいるでしょう。しかし、イスラエルの北にある、シリア地方に生えているレバノン杉はさらに長寿です。これは杉というより松に近い種類だそうです。日本にも散見されるヒマラヤ杉も同じ仲間です。何と、このレバノン杉は5千年も生きているそうです。こうした植物と人間の違いはDNAだけではありません。植物は神の御心に従って生きているともいえるでしょう。自分が芽をはやし、成長し、根を張ったところから他の場所に移動しようとはしません。人間や動物は、常に良い環境や食べ物を求めて歩き回っています。そこに悩みも多いわけです。

じゃあ、人間の中では一体誰が永遠の命をいただけるのでしょうか。それは、自分ではできません。救い主によって永遠の命を受け、救われるのです。ほかの方法はありません。救い主は羊飼いと同じです。ですから、イエス様は、救われる人、つまり永遠の命を回復させていただく人を、羊に譬えたのです。これはすごく的確な譬えだと思います。何故ならば、羊は、自分では生きていけない無力な存在だからです。羊は羊飼いに世話をしていただかなくては、生きていけません。そこをイエス様は言いたかったのです。また羊は、愚かで力のない者の象徴でもあります。宗教は違いますが、日本の仏教の親鸞が、自分のことを「愚禿」(愚かなハゲ頭)と呼んだのも、これに似ています。もし、タイムマシーンで親鸞に会いにいけたら、彼は自分のことを「無力な羊」であると認めることでしょう。

しかし、逆説的に、この愚かな羊が永遠の命の継承者なのです。この羊たちが、自分で自分の罪を自覚している者なのです。自分の罪が本当にわかっているから、人の事をあまり非難しません。自分の罪がわかっているから、その罪を赦してくださる神の愛に感謝が溢れています。そして、イエス・キリストの十字架の清めによって、これを信じることによって、永遠の命が回復されたことを信じるのです。ハヌカの清めのような外側ではなく心の内側の清めです。ただこのことは繰り返し自覚する必要があります。ルターも語っています。「あなたがキリスト者になろうと思うなら、キリストの言葉を学び終えてしまったと思うことがないようにしなくてはいけない。毎日、小学校の生徒のように学ぶことだ。」イースターも永遠の命の復活のしるしでした。わたしたちも、毎週新しく救いのメッセージを受け取ることが大切です。

それは、羊として命の祝福を受けとることなのです。黙示録にも書いてあります。「救いは神と子羊のものである。」この場合の子羊はイエス様のことです。そして、「大きな苦難を通ってきたもので、キリストの血で白くされたものとなる。もはや、どんな苦しみも彼らを襲うことはできない。キリストが羊の牧者となり、涙をぬぐってくださる」これが福音のメッセージです。救い主イエス・キリストの十字架がわたしたちを、罪と死から救うと信じるのです。そして信じる者にはこの聖書の約束が成就します。「彼らは決して滅びず」というイエス様の約束は、つまり、どのような悪魔の攻撃にも耐え、喜びと感謝を失わず、十字架によって回復された命を堅持するという事です。十字架以外に救いはありません。そして、新しい命に生まれた者は世の試練に勝つのです。これが、銀河の存在よりもはるかに無限であり、レバノン杉よりもさらに力強い、永遠の命のしるしです。

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