印西インターネット教会

どんな人にも福音が役立つことを学ぶ説教

「良い知らせ」            ルカ24:44-53

今日は昇天主日という特別な日曜日です。わたしたちに対する素晴らしい祝福の日です。また説教題の「良い知らせ」とは、英語ではグッドニュースです。それは聖書の言葉では、福音となります。つまり、福音とは神様の良い知らせです。ただ、良い知らせ、というのは個人によって違うものではないでしょうか。お医者さんから病気は治ったと言われるのも良い知らせです。宝くじに当たったというのも良い知らせでしょう。良い知らせには、元に戻った嬉しさとか、何か特別なものを得た喜びがあるようです。車を買った、家を買ったというのも、何かを得た嬉しさです。しかし、残念ながら、聖書を見ますと、「人は草のようで、草は枯れ、花は散る」とガッカリさせるようなことが書いてあります。何かを得て喜んでも、いつか無くなるのが人生だというのです。喜びが大きいほど、それを失う悲しみも大きいはずです。

ただし、聖書の言う良い知らせとは、この世で経験するつかのまの喜びではありません。もともと、人間は神の姿に似せて造られたと聖書に書いてあります。ですから、この神の姿が人間のなかに回復することが聖書の言う「良い知らせ」なのです。外側(物の獲得)の要因ではなく、内側(主観)が変化することです。

今回も、聖書を通して、この「良い知らせ」を学びましょう。深く理解できるならば、人生に良い変化があると思います。ルカ福音書の日課の初めの部分に、律法と、預言と詩編と書いてありますが、これは当時のユダヤ人にはすぐわかる事でした。しかし、わたしたちには少し説明が必要です。

旧約聖書の最初の5つの巻が、モーセの律法と呼ばれ、そのあとに歴史書が続き、そして詩編、その後が預言書となります。つまり、歴史書を除くすべての部分で、救い主の働きが書かれていて、それは必ず実現するはずだと、イエス様は言ったのです。そして、ここには2つのことが表現されていますね。その一つは、聖書の趣旨というか、中心テーマは、救い主が現れると言う事です。もう一つの事柄は、イエス様によれば、この聖書の預言は必ず実現するということです。2つのことを1つにまとめて言えば、聖書の教える、救い主が来るという預言は必ず実現するということです。これが「良い知らせ」です。え!、たったそれだけ?と思ってしまいますね。そう言われてみても、何でそれが「良い知らせ」なのか、すぐにはわかりません。預言の実現がどうして良いしらせなのか、異邦人であるわたしたちには理解できません。でも、心配いりません。イエス様と3年間を伝道しながら一緒に過ごした弟子たちでさえ、チンプンカンプンでした(笑)。

そこで、イエス様は、弟子たちに、前に言っておいたでしょうと、念を押しています。イエス様を宗教家のように思ったり、カリスマ的な人と思いがちですが、実際は非常に実際的で教育的な人でした。わたしも大学教育に関わっていますが、教育と言うのは一貫性が必要です。同じことを何度でも繰り返して教える必要があります。ですから、イエス様は大切なことを繰り返し教えました。そして、イエス様が十字架にかけられた40年後に福音書が書かれたのも、その教えが弟子たちの心に刻みこまれていたからです。ある教育家が言っていますが、同じことを3万回くりかえすと、それが自分の手足のように自由にできるようになるそうです。

キリスト教ではありませんが、お釈迦様も根気よく教えた人でした。その弟子に、ピンギヤという老人がいました。その人とお釈迦様との対話記録が残されています。ピンギヤはお釈迦さまにお願いしました。「自分は年取って、力もなく、目もよく見えず、耳もよく聞こえない。こんなわたしが迷ったまま死なないように法を説いてください。」お釈迦様は彼に諭しました。「物質的な形態を捨てなさい。」ピンギヤがこれをすぐに理解したかどうかはわかりません。しかし後に、ピンギヤが知人に語った言葉が残されています。「わたしは老いて気力も衰えた。しかし、わたしの心は彼と結び付いている。汚泥のなかをもがいてきたわたしは、ついに激流を乗り越え、悟りをひらいた、汚れなき人に出会ったからだ。」

イエス様の弟子たちも、同じように汚泥のなかをもがいていた人たちだったでしょう。彼らは心が鈍く、神と人間思考のあいだで翻弄される人々(心を騒がせる人々)であり、イエス様が復活したことを本心から信じられませんでした。十字架の時にも逃げてしまった人たちです。いわば、本当の意味では神という存在を信じられなかったのです。しかし、神に出会い、その神を信じるならば、神にとって不可能なことはない、神は罪や死に勝利する方とわかるのです。

そこでイエス様は、聖書を悟らせようとしました。この悟らせるという言葉は、スニエイミというギリシア語が用いられています。コンツェルマンという有名な聖書学者がこのスニエイミという言葉を解説しています。

それはまとめるとか、一致するという意味を含む、理解するということだそうです。例えば二つの川が一つになることです。また、これは救い主の秘儀を示す言葉です。ただ、理解すると言っても、人間の頭のなで神さまの川の流れと、人間の川の流れはなかなか一つになりません。分離しています。つまり理解(一致)が不可能なのです。この不可能なものが可能になる転換点は、イエス様の復活です。復活が分岐点を一つにする新しい結合点、つまり神の存在との解合(隔たりがなくなること)となったのです。ですから、聖書を編纂した弟子たちは、この貴重な経験を通して、悟り、神さまのことをイエス様と同じように理解して、福音書にしたのです。わたしの考えでは、この解合とは、あのピンギヤが経験した一致観と似たものだと思います。

しかし、なぜ、十字架の苦しみ、復活、悔い改めと罪の赦し、という重要事項が福音なのでしょうか。心の堅い、鈍い弟子たちをイエス様は忍耐して教えました。罪、弱さ、頼りなさに悩む弟子たちでした。ルターはこの箇所に触れて「心の堅い弟子たちも、キリストの熱意と優しさにふれて、やがて理解できた。その後、弟子たちは自分たちの経験から心の堅い人々に対して優しく接することができた」と述べています。このような心意気がまさに聖霊です。人間は自分が受けたようにしか人に与えることはできません。復活を経験した弟子たちは、聖霊を受け、復活を知らない人々に復活を伝えることができました。

実は、その繰り返しが2千年続いています。今でも教会は救い主の復活を毎週日曜日に告げている団体です。ただ、すぐには理解できないかもしれません。スニエイミという言葉のように、今までの自分の人生の流れと神の流れが合流したときに、福音がわかるのです。そのとき人は、自分自身の「福音書」を書き始めるでしょう。

この福音が十字架の苦しみ、復活、悔い改めと罪の赦し、にあるのは確かです。なぜでしょうか。まず、人間の負うべき罪と死の苦しみを、罪なき罪なきイエス様が身代わりになって負ってくださったこと、それが十字架です。それほど人間の罪は重いのです。復活というのは、エフェソ書1:19にある「絶大な働きをなさる、神の働き」を信じることです。また、悔い改めと言うのはUターンの意味です。自分の事しか考えていなかった人が神の方向への方向転換することです。あるとき、干ばつで畑の麦が全部枯れてしまったのを指さして、農家のおばさんが、「神さまのすることだからしょうがないよ」と言ったのが忘れられません。日本人には元来神に向いた意識があったと思います。

最後に罪の赦しですが、これは罪からの解放と言う意味です。人生は、多くの場合、解放された自由がありません。不満だけです。譬えていえば、人間はあらゆる速度制限と停止信号に囲まれて不自由に暮らしているということです。ところが、この自分を愛し、犠牲となり、罪から解放してくださる救い主のことを知ると、自由になり解放されます。全てが青信号のフリーウェーなのです。この愛と自由に出会った者は、相手にも愛と自由を伝えることができます。あのピンギヤという老人も、最初はお釈迦様の理論は理解できなかったのですが、お釈迦さまと出会ったことが、彼を汚泥の中から救ったのと同じです。出会いが大切です。イエス様の復活と愛に出会った者は、本当の福音を知りました。彼らは、もはや押さえつけたり、禁止したり、しつこく要求せず、絶えまなく赦し、与える者となりました。それは、彼らが、絶えまなく赦し、支え、愛しつ続ける、復活したイエス・キリストに出会い、解合(心の一致)したのです。教会はこの福音の自由と喜びと愛という良い知らせを現代も伝えています。これは架空の出来事ではありません。過去にはリンカーン大統領、発明王エジソン、キング牧師などキリストの証人を数多く生み出しています。自分と共に歩んでくれ、弱った時には背負ってくださる神を発見した人々です。

初代教会の弟子たちがどんな迫害や試練にもくじけない力を与えられ、この世のものがすべて消えても喜びを失わないようになったのは、イエス様の素晴らしい福音を知ったからです。使徒言行録に「あなた方は力を受ける」と書いてある通りです。良い知らせを受けた者は良い知らせを与える事が出来るのです。わたしたちも、まず、この良い知らせを受け取りましょう。

 

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