印西インターネット教会

救い主に背負っていただく人生

「福音を伝えに行く者」    マタイ28:16-20

弟子たちはイエス様に指示されたとおりに山に登ったといいます。イエス様という方は、当時のユダヤの人々にとって最も尊敬する人物であった、あのモーセと同じ、いや、それ以上の方なのだ、ということを、マタイは「山」という場面設定によって描き出そうとしていると思います。モーセの場合の背景はシナイ山でした。

ここは伝道に関係のある箇所でもあります。「あなた方は行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」というイエス様の言葉を受けて、弟子たちは伝道を始めました。それまではイエス様が先頭に立ってやっていたことを、弟子たちが始めたのです。神様は、私たちが外へ向かって出掛け、人との関わりを持つことを願っておられるわけです。ですから、ある牧師は、礼拝後にはすぐに家に帰って家の人を親切に援助するのが伝道だといいました。確かに、外国の教会では礼拝後にはすぐに帰宅し、委員会や聖歌隊の練習などは平日に行っています。

さて、イエス様の弟子たちはガリラヤで指示されていた山に登り、復活されたイエス様に会い、ひれ伏しました。ところがそこに、マタイはもう1つのことを書き加えました。「しかし、疑う者もいた。」(28・17)というのです。復活したイエス様と出会っているのに、信じ切れていない人もいたというのですから、場合によってはその事実を伏せておけばよかったはずです。ですが、聖書は自分たちに都合の良い結果だけを書いているのではなく、事実を事実として記録しているわけです。そこに、大切な神学が示されています。つまり、マタイ福音書の神学によれば、人間には過ちが多いけれども、神の愛がそれを贖っているから、「それでもいいんだよ」というのが聖書の一貫した教えです。また、自分を含めてどんな人間でも人間を理想化しないことが神学の第一歩です。ルターなどは、どんな人間も死ねばウジの詰まった肉袋にすぎないと言いました。

さて、この「疑う者もいた」、というギリシア語エディスタサンの元来の意味をたどると「2つの方向に歩むとか、人の中に2つの思いがあり、分裂した状態」を表す意味になります。前にお話しした聖書の中の「心を騒がせる」という言葉と同じ意味です。心が二つに分かれているのです。わたしが学生のころ、頭を負傷しまして、一年くらい道が二本に見えて困ったことがありました。そうなると、どちらに進んでいいかわかりません。これが悩みの状態に似ていますね。一つに決めることができれば悩まないのです。わたしたちの場合はどうでしょうか。

信仰においても疑いとか迷いはおこります。信じたいけれども心を邪魔するものがあって、神にまっすぐに心を向けることができないわけです。そこで、原語では「疑う者たち」とあり、単数ではなく複数形で書かれています。そこで、その人たちにイエス様は何をなさったのでしょうか。イエス様は、遠くから声をかけて、信じなさいと命令しませんでした。お前は不信仰だな、とも言いませんでした。むしろ、近寄って来て、すぐそばで声をかけたわけです。なぜかというと、イエス様は疑う弟子たちをも励ましたかったからです。あなたがしっかりしてなくても構わないよ、わたしが共にいるから安心しなさいというのです。これは、人間中心の信仰ではないです。わたしたちの努力ではなく、もっぱら救い主の働きによる信仰です。この信仰が確立すると、あまり悩まなくなります。自分の弱さを助けるために、イエス様が復活されたのだと理解できるからですね。また、イエス様は「教会にきたときだけ、あなたがたと共にいる」とか、「あなたが善人であれば、あなたがたと共にいるよ」と約束したわけではありません。「いつも」共にいると書かれています。うまくいっているとき、うまくいっていないとき、悩んでいるとき、悩んでないとき、健康な時、病気で寝ているとき、皆から感謝されるとき、皆から見捨てられるとき、どんな時でも、「いつも」あなたがたとともにいる、これがイエス様の約束です。

この点をうまく表現した外国の話があります。

ある人がイエス様と浜辺を歩いている夢をみました。空にはその人のこれまでの人生が写しだされました。一つ一つの場面で、砂の上に二組の足跡が砂の上に残されていました。一つは自分の足跡、もう一つはイエス様の足跡です。最後の場面まできた時に、その人は振り向いて、人生のすべての足跡を見ることができました。しかし、自分が最も悲しかった時、ひどく絶望した時には、足跡は一組しかありませんでした。このことは、とっても気になりました。そこで、夢の中でイエス様に尋ねました。主よ、わたしがあなたを信じたときに、あなたは、いつまでも私と共に歩んでくださると約束してくださったではありませんか。でも、人生の問題が一番重苦しかった時には、足跡は一組しかありませんでしたよ。なんで私を見捨てたのですか。すると、イエス様が答えました。わたしの愛する子よ、わたしはあなたを見捨てたことはない。あなたが最も悲しく、最も苦しんでいた時、つまりあなたが一組の足跡しか見つけだせなかった、あの時には、わたしはあなたを背負って歩いていたのだ。

「いつも」あなたがた共にいる、これがイエス様の約束です

実は、神から離れているというのが、キリスト教の罪の認識です。最近、長野で悲惨な殺人事件がありました。あの犯人の悩みや、心の痛みは、怒りとして他人を傷つける結果になってしまいました。いじめや、うわさ話で、自分の尊厳を傷つけられたと思っていたからです。実は、この犯人だけではなく、これこそが神から離れた人間の、原罪に苦しむ姿なのです。人に褒められて夢中になったり、人から見捨てられて絶望したりするのは、「いつまでも、あなたがたと共にいるよ」という神の絶対愛、わたしたちが倒れていても背負ってくださる神の愛を知らないからです。

 

背負うといえば、こんな実話もあります。二人の登山家が、ヒマラヤの高い山に登りました。二人は高度6千メートルくらいのベースキャンプから、8千メートル級の山の頂上に到達しました。そこは雪と氷の世界です。酸素も薄いし、気温も零下三十度です。下山する途中で一人が滑落して骨折し動けなくなってしましました。怪我のないもう一人は、友達を背負ってベースキャンプまで下りました。そこに行けば助かると思ったからです。しかし、二人の帰りがあまりにも遅いので、もう死んでしまったと思ったベースキャンプの人たちは既に下山してしまいました。普通なら、そこで諦めるはずです。しかし、愛情深い一人の登山家は、一人で歩くのも大変な山道を、友達を背負って下り、ふもとの村まで行くことができたのです。私はこの出来事を知って、まるで、イエス様の姿のようだなと思いました。

ですから、ここで、救い主イエス・キリストが「いつも」あなたがたとともにいる、と約束してくださったというのは大切なことです。神の御子が一緒にいて下さることは、神が共にいらっしゃるが故に、あなたは罪からすでに救われている、ということなのです。

弟子たちが、その後の厳しい迫害の中でも伝道活動を続けていけた力の源は「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」というイエス様の約束でした。道は二つではないし、イエス様が背負ってくださったから、試練に負けなかったわけです。

イエス様は現代のわたしたちにも、共にいるという約束をしてくださっています。そのイエス様との関わりの場所が教会です。今日は三位一体主日ですが、天地創造の主なる神、救い主である神、そして、聖霊なる神の場所は教会です。信仰者の集まりの中に、共におられる神が臨在します。

「行きなさい。福音を伝えなさい」と書いてあります。しかし、伝道は難しい理屈を伝えることではありません。福音を伝える者は、神が共におられ、自分の恐れや不信仰の重荷さえ背負っていただけるという喜びを持っています。そして、それを感謝して伝えたいと思うのです。ですから、伝道とは、その喜びを、ストレスや、孤独や、病気で苦しむ人に伝え、また、イエス様のように、自分も他人の重荷を喜んで背負っていくようになることです。

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