印西インターネット教会

聖書の愛とこの世の愛の違いを知る説教

「愛の原点」        ルカ7:36-50

サッカーや野球でも、サポーターたちのチームへの愛はすごいものです。そしてその愛には、隠された理由があると思います。

旧約聖書のサムエル記下12章には、ダビデ王の悔い改めの話が出ています。ダビデは部下のウリヤを戦死させ、美しかった彼の妻のバトシェバを自分の妻にしました。ここで、ダビデ王は預言者ナタンから比喩を聞かされて、最初は激怒しました。話の中の金持ちの男が余りにも理不尽で、冷酷だったからです。ところが、この話はダビデ王が自分でしたことを比喩したものでした。預言者ナタンはダビデ王を悔い改めに導くためにこの話をしたのです。興味深い事に、ダビデ王が反省して「主に罪を犯しました」と告白すると、ナタンは「主が罪を取り除かれる」と約束したのです。ここに見られるのは、神の無条件の赦しです。これから何かの償いをしたから赦されるのではありません。罪を認めた時点で、その罪を神が取り除いてくださるということを聖書は教えているのです。

そこの点が、ローマ書などに書かれている、「信仰によって義とされる」という神学です。誠実な行いがこの世ではカウントされます。行いや業績によって人間が採点されている世の中だからです。ただ聖書の中では違います。人間観の採点表は無視されます。そして、救いは、行いはによらないと教えています。まじめな人から考えたら、とんでもない話です。イエス様を十字架にかけた著名な人々も、そのような「義憤」を持っていたにちがいありません。この辺の状況を詳しく知っていたルターも、「人間によって発案され、導入されたものが捨てられ、無視されること」がどうしても必要だと述べています。つまり、人間的な価値観では、聖書の教えは理解できないのです。

だからこそ、イエス様は信仰の大切さを教えているわけです。36節に登場するファリサイ派の人は、人間的に誠実でしたが福音を知らない人でした。彼は聖書を読んでいましたし、行いも立派なものでした。親孝行だし、礼拝は欠かさず、献金も収入の10分の1はしていました。まるで、日本の代表的なクリスチャンのようでした。ファリサイ派の人は、ですから、この世の基準からみても立派な人でした。ところがここで一つの事件が起こりました。

その事件とは、ある罪深い女の登場です。当時の食事は、低いテーブルも周りを横になって、左側を下に寝ころんで食事しました。イエス様の後ろからこの女が近寄ったということは、投げ出していた足を触れたということです。そして足に香油を塗ってくれたのです。ただ、彼女はそのときとても嬉しくて、思わず泪が溢れたわけです。当初は香油を塗るだけだったのに、彼女は足に接吻までしたのです。それほどイエス様を愛していたわけです。その愛の理由は、罪のなかに生きていた自分をイエス様が無条件で赦してくださり、立ち直らせてくれたからです。彼女の愛には理由がありました。わたしたちの地上の愛にも、それぞれの理由があることでしょう。それを、通して、自己存在を見つめてみることも大切です。

さて、その彼女の態度に対して、生真面目なファリサイ派の人がどう思ったかが重要です。彼は彼女の感謝と愛を理解できませんでした。だいたい、自分が正しい人間は、罪が赦された喜びというものは理解できないでしょう。ですから、彼は、イエス様が罪深い女からこのような接待を受けるべきではないと思ったのです。「あんな女に愛されちゃって、イエス様はおかしいよ!」きっと、そう思ったのでしょう。彼の心の中では、女は赦されるべきではない罪の存在だったのです。一方で、彼の思いにも一理あるのです。何故ならば、人間は神の力がなければ、過去の罪を帳消しにすることがでないからです。部下を死なせたダビデ王の、神に対する悔い改めは詩編51篇に記録されています。ダビデは、神からの処罰を受けましたが、罪自体は赦されたのです。このように、神の働きによって、過去の罪科を帳消しにしていただくことを、聖書を読んでいたにもかかわらず、イエス様を招待したファリサイ派の人は知らなかったのです。聖書を読んでいながら、聖書が伝えようとしている、神の絶対愛と無条件の赦しに対して無知だったわけです。これは、現代の多くのクリスチャンにもいえることでしょう。聖書の中心的な神学を見過ごしてしまい、「清く、正しく、立派に」生きなければならないという律法を、自分や他者に課してしまうのです。

ただ、こうした福音を知らない人は意外に多いものです。神の知識はあるのですが、自分が赦された経験がないからです。自分が余りにも正しい人間だと、思い込んでいるわけです。自分自身を、自己義認という色つきのサングラスをかけて見ているのです。そこで、イエス様は預言者ナタンの時と同じように比喩を語りました。ナタンの話の中でも、金持ちと貧乏人の対比がありました。イエス様の比喩のなかにも同様の対比がありました。これは、イエス様が聖書の内容とその神学をしっかり把握していた証拠です。イエス様が語ったのは、たくさん借りて帳消しにしてもらった人と、少しだけ帳消しを受けた人との比較でした。ファリサイ派の人は、話の中で、誰が一番愛するかを理解できました。勿論、多くを帳消しにしてもらった人です。わたしたちだって、そう思うでしょう。しかし、彼は比喩の全体が、何を暗示しているかを悟らなかったわけです。最後で、イエス様が、その一番愛する者こそここにきている罪の女だと言ったわけです。彼女は神に罪を赦され、その喜びと愛とを現わしているのだと教えたのです。わたしたちの場合はどうでしょうか。わたしたち自身が、すこししか赦された経験がないならば、他者を赦すことはできませんし、日々の生活に感謝の思いもわいてこないでしょう。

そこで、わたしたちもこの比喩を通して、自分自身に語りかけてみましょう。ある人は、自分は十分に神を愛していると言います。社会奉仕もしているし、毎日祈っているし、聖書も読んでいるし。感謝もしている。もう一人は、神がしてくださったことに対して自分は十分に感謝もしていない。祈りもたりない。年に3回ぐらい、クリスマスとイースター、それに自分の誕生日くらいしか祈らない。神様に叱られてしまうようなこともたくさんやってきた。自分は罪深い人間だ。

さて、神はどちらの人に愛を悟らせるでしょうか。参考までに、ルターは、自分はウジ虫の一杯詰まった袋にすぎない、つまり罪深く汚れた者にすぎないと言ったそうです。つまり、ルターは、人間は生きている限り、罪人である後者であると自己理解する必要性を教えたのです。つまり、神が愛する者は、自分を正しいと自負するものではなく、自分の低さを深く認識したものです。先に述べました、スポーツやアイドルなどの人間的な愛の理由は、立派であること、美しいこと、賢いことや強いことですが、神への愛の理由は無条件の赦しに存在します。ですからパウロも、ローマ書8:38で「死も命も、どんな力も、どんな被造物も、このイエス・キリストにおいて示された愛」から自分を引き離すことはできないと宣言しているのです。この世の人間的な判断基準からみれば、極悪冷血だった迫害者のパウロが、聖徒とされたのは、彼の業績によるものではなく、信仰に根差した悔い改めと、罪の赦しによるものでした。それが、パウロの愛の原点でした。

さてわたしたちの人生は、ファリサイ派の人のようでしょうか。それとも、罪の赦しを受け入れ、感動のあまり泪を流し、イエス様に仕えた女のようでしょうか。聖書は比喩で教え、自分が一体誰であるかを見詰めさせてくれます。自分のこれまでの人生振り返るときに、神の赦しと愛への感動が泪のようにこみあげてくるでしょう。

ただ、この感激を自分のところにだけ留めてはいけないのです。自分もまた、人が悔い改めたら赦すべきです。赦すことは、ファリサイ派の人のように自己義認でかたまったひとからは誤解をうけることもあるでしょう。しかし、人間に誤解されても神は分かってくださるという確信を持ちましょう。また、試練をとおしても、真実の愛が起こされます。悲しみや痛み、侮辱や、悩み、自己の力の限界に立てば立つほど、それでも絶対愛を注いでくださる神への愛が溢れてくるはずです。

再三申し上げますが、人間的な愛は、美しいもの、強いもの、賢いもの、勇気ある者を愛する愛です。しかし、わたしたちに対する神の愛の理由は、人間が罪深い者、弱い者、醜い者、小さな者、捨てられた孤児のような存在だからです。メサイアを作曲した、ヘンデルも失敗と破産、病気の苦難の中で、キリストの救いを理解しました。そこでメサイアという喜びの曲を作ることができたのです。

イエス様がこの女に語った言葉、「あなたの信仰があなたを救った安心して行きなさい」とは、今後に彼女が人間社会から受ける批判に対する、イエス様の愛の保護の言葉です。この言葉は、二千年後に生きるわたしたちにも向けれれています。

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