「空の鳥も知っている」 マルコ4:26-34
イエス様は成長する植物の例によって神の国を教えました。今日の福音書の箇所で、イエス様は自然をいわば教科書にして、神の国の真理を伝えようとしたわけです。
キリスト教神学でも、人間の生き方と自然における神の愛を調和的にとらえようとしたのは、今から800年前の中世の神学者トマス・アクイナスです。それまでは、自然について二つの対立的な考えがありました。一つの考えによると、自然は神の無垢で純粋な被造物であり、罪のない状態であるというのです。もう一つは、自然と神の世界である超自然とを対比させ、この地上の自然は堕落して罪に染まっているという考えです。自然は罪のないものであると言ってみたり、いや、仏教でいうような「穢土」であり汚れたものだといったり、とても解釈がむずかしいものでした。皆さんはどう考えるでしょうか。例えば、人間の中にも多くの自然的部分があるわけです。生命原理というべきものです。これを罪に汚染されたものとみるのでしょうか、それとも生命は生命としてすべて肯定されるべきなのでしょうか。
トマス・アクイナスの出した結論はこれです。トマスは、それまでのプラトン主義ではなくアリストテレス主義を応用し、自然の理解から原罪論を取り除きました。簡単に言えば、プラトンのような理想主義ではなくアリストテレスのように、今どのように幸せに生きるかという現実主義に立ったと言えます。そして、自然が罪深いとか罪がないとかの抽象的理論ではなく、人間の本性の中に、欲望的本性と理性的な本性を区別したのです。そして、人間は神によって社会的生命体として創造されたと主張しました。ですから、異教徒の支配者がキリスト教徒を支配することもありうると、トマスは数ある神学者のなかで初めて認めた一人です。トマスによれば、どんな国家も神の定めたものだからです。つまり、トマスはすべての自然的なものを神の恩寵を中心にして理解しようとしたのです。「すべて存在するものは、存在する限り善である」というトマスの根本命題にトマスの考えが凝縮されていると思います。この世のすべてにおいて、神がその存在を許しているという思想が一貫しているわけです。しかし、汎神論ではなかった。神がたくさん存在したり、自然が神になったりするのではありません。神と被造物の明確な差を強調したわけです。一見すると、それは自然と恩寵の対立とも見えます。しかし、恩寵は自然を否定するものではなく、完成するものなのです。自然は恩寵を求めている。だから人間社会の道徳も肯定される。道徳も恩寵というより恵みによって導かれている。ここに自然か恩寵かという二者択一はなくなります。この世の出来事は、神にあってはすべて善であるという楽観主義がみられるのです。ルターは、罪の問題を棚上げしたトマスの楽観主義に反対しているように見えることもありますが、アウグスチヌス派の修道士として人間の原罪を謙虚に見つめつつ、ルターも実は福音の楽観性、神の世界の楽観的な確かさに立っていたのです。その点では、ルターもトマスとは違ってはいないのです。
ではイエス様は、自然の世界と神との関係をどのように考えたでしょうか。今日の日課である、マルコ福音書4章では、神の国が知らないうちに成長するが、それは人間の努力とか業績とは関係ないと教えられています。つまり、わたしたちの社会では、人間の努力や能力によって評価が決まるが、神の世界はそれとは無関係だというのです。人間はそれを知らなくても、空の鳥や野の花の方がそのことを良く知っているでしょう。自然も被造物であって、被造物は神の恵みの内に、つまり恩寵に生かされているのです。この神の恵みの世界を「神の国」と言うのです。ここで成長とは、奇跡でもあります。そして実を結ぶのも奇跡です。誤解を避けるために説明すると、奇跡とは、人間の手を借りずにあることが成し遂げられていくことだといえるでしょう。前の教会の裏にあった花も同じでした。長いアルミの梯子が外に置かれているたので、梯子のパイプの中を野草の茎が伸びて花が咲きました。これは序の口です。次に、パイプの下に生えた茎がエル字型に曲がって伸びたのは奇跡の領域ともいえます。人間の手を借りずに、植物がどのように障害物を認識して正しい方向に伸びたのでしょうか。
わたしたちは、自分の働きを第一に考えてはいけないのです。神の働きを第一にすること、イエス様が、まず第一に御国を求めなさいと言ったことが大切なのです。逆に言うと、わたしたちが成功したとか失敗したということは二次的なことであって、神の恵みは常に変わらず豊かにあたえられているという理解です。ですから、イエス様は自然の恵みを示したあとで「あなたがたはなおさらではないか」と諭しています。そんなことは空の鳥も知っているはずです。あるテレビ番組では子豚が登場しました。子豚さえ、自分が愛されていることを知っているから、名前を呼ばれたら走ってくるのです。わたしたちはどれほど創造主である神に愛されていることでしょうか。それは罪のない鳥、神という視点を物質の中で見失っていない自然の生物の方が知っているように見えます。早朝、夜明けとともに野の鳥は喜びの鳴き声をあげています。わたしたちも是非それを知る必要があるというのがイエス様の教えの中心です。わたしたちの努力や計画も大切ですが、それによって実を結ぶのではないのです。人間の「自己中心性」、つまりここに罪の根源があるのですが、罪の否定とは、自分が正しく生きようとする努力によってではなく、神の働きの肯定の中に隠されているのです。自分を変えようとするのではなく、神のご恩寵を人生の中心とすることによって、「自己中心性」から「恩寵中心」に変性するのです。これが、イエス様流の罪と恩寵の問題の解決方法です。
ここで大切なのは、批判、警告や裁き、あるいは脅しではなく、励ましです。聖霊の重要な働きは助け主になること、コンサルタントであることであって、それは温かい励まし以外の何物でもないのです。イエス様の罪人に対する態度は常にそうでした。クリスチャンであるということは聖霊に生きる事であって、励ましに生かされ励ましに生かす人となることです。それを、イエス様は自然のことがらを通して、「土はひとりでに実を結ばせる」と示したのです。神が実を結ばせるのです。神の愛と励ましが、人を成長させ、実を結ばせるのです。
わたしたちは自分の結果に一喜一憂しますが、本当は自分が「寝起きしている間に」成長させていただくのです。わたしたちの行動が止まっているときも、神の働きは決して止まることがありません。そして、かならず豊かな収穫を与えてくださるのです。それを信じなくてはなりません。神の恵みの働きを信じるのです。目に見えない働きを信じるのです。ルターはそのことを、卓上語録で「われわれがこうしてテーブルについてビールを飲んでいるときも御国の働きは前進している」と述べました。人間の働きではなく、神の働きを信じる信仰を持っていたからです。
朝早く起きると夜明けとともに、空の鳥が一斉に鳴き始めます。空の鳥は自分では種をまいたり、収穫したりしませんが、神の恵みを信じ、喜びの内に生かされているのです。わたしたちに対する神の愛と助けはなおさらのことでしょう。
今日のエゼキエル書17章の日課には、「主であるわたしが、これを語り、実行する」と書かれています。小さな出発点である芥子粒のような、取るに足りない存在を、大きく大木のように成長させて下さるのです。
この、霊の世界では、青々としたものが枯れ、枯れたものが青々する。正しい者が枯れ、罪人が救われる。ここに、人知を超えた神の恵み、恩寵の働きがあります。トマス・アクイナスもルターも神の恩寵に生きたのです。わたしたちも、罪人ではありますが、すでに神の恩寵に生かされているのです。感謝の内に歩ませていただきましょう。