印西インターネット教会

心の波が静まるみ言葉の説教

「波よ静まれ」           マルコ4:35-41

マルコ福音書の日課の最後の方に、「いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか」と書いてあります。これこそ、マルコ福音書の記者が読者に伝えたい事なのでしょう。

さて、イスラエルに旅行すると、だれでも行ってみたい場所があるようです。それは、言うまでもなく、エルサレムであり、イエス様の故郷のナザレでしょう。また、聖書を詳しく読んでいる人は、イエス様が伝道活動した場所であるガリラヤ湖周辺の町にも行ってみたいと思うでしょう。ただ、イエス様の時代の人々の感覚では、エルサレムは神殿もありユダヤ人の政治・宗教の中心地でした。一方、ガリラヤ湖周辺は、ローマ帝国の関係の都市も多く、昔からの異教の宗教も残っていて、エルサレムに住むユダヤ人たちは軽蔑していた地域でした。しかし、イエス様の心には、どんな人に対しても愛の気持ちはありましたが、軽蔑の心はありませんでした。価値観が違っていたからでしょう。それは、人間的な価値観と、神を信じる者の価値観の違いです。

さて、このガリラヤ湖で有名なのは突風です。なんと海抜下213メートルの低さに位置するガリラヤ湖を挟んで、西側は緑の山が続いていて、海に下っていきます。ガリラヤ湖の東側には大変険しい活断層のような崖が続いていて、その東側はシリア砂漠に続いています。戦争があった場所であるゴラン高原も、ガリラヤ湖の北東の場所にあります。やはり砂漠のような場所です。こうした、あまりにも違う風景の真ん中にガリラヤ湖があります。おそらく、海の風と砂漠の風がぶつかるのがガリラヤ湖周辺なのではないでしょうか。そうして起こった嵐のことが、今回の記事の内容です。

さて、イエス様がこの突風を静めた事件は、当時の人々にどのような影響を与えたでしょうか。マルコは「いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか」と書いて何を伝えたかったのでしょうか。また、現代のわたしたちにとって、それはどのような意味があるでしょうか。

記事を順番に読んでみますと、一日の伝道の働きが終わって、イエス様の一行はガリラヤ湖の反対側に小舟でわたりました。こうすることによって群衆から離れ、静かな夜を過ごすことができたわけです。特にイエス様にとっては、夜は静かに祈ることが大切でした。わたしたちも、時には、静かな環境に身を置いて祈ることが大切でしょう。イエス様の弟子たちはガリラヤ湖の漁師の出身でしたから、嵐には慣れていたと思いますが、その彼らさえ怯えるくらいの風が吹き、とんでもない波が押し寄せてきたと思われます。日本でも、震災の時に、船も陸に打ち上げられる状況の映像を見て波の怖さを知りました。このような破壊力によって、ガリラヤ湖で弟子たちの長さ5メートルくらいの船は沈み始めたのです。しかし、イエス様は船尾のほうで横になり、枕をしてぐっすり眠っていました。おそらくイエス様にとっては、嵐の中の波もゆりかごのようなものだったと、マルコは言いたいのでしょう。弟子たちの大騒ぎなどはまったく知らないかのようでした。弟子たちのあわてた姿に示される地上世界の喧噪と、イエス様の安らかな眠りに示される天上の世界の静寂さの対比を描写したマルコの記述は、天才的であるように思えます。価値観の違いを文章で鮮明に描き出したのです。もしこれが絵なら、ダ・ビンチ級の作品でしょう。そして、弟子たちは悩み多き地上世界での救済を求めて叫びました。

叫びといえば、あるときに知人が仕事の待ち合わせで東京駅の近くの駅ビルでコーヒーを飲んでいたそうです。すると、それまでは隣の席で和やかに談話していた女の人が、突然、大きな叫び声をあげたそうです。その知人は叫び声だけを聞いただけですが、窓際に座っていた女の人は、向かい側の高層ビルから人が投身自殺をするのを目撃したのです。飛び降りた人はフェンスに乗って飛び降りる前に、助けを求めるかのように大きく手を振っていたそうです。どんな意味だったのでしょうか。考えてみると、わたしたちも、ある面では死を覚悟した時でさえ、地上世界での救済を求めて手を振ってしまうのではないでしょうか。この世の価値観はもはや終局を迎えているのに、なにやら未練が残ってしまうのです。

ここで、漁師の彼らが、おそらく手を振って、大工さんだったイエス様に助けを求めたというのもある面では滑稽なことです。水鳥と金槌の対比のようです。それに対する、イエス様の対応は実にシンプルでした。「波よ静まれ!」と叫ばれたのです。救命胴衣だとか、荷を捨てて船を軽くせよなどの人間的な価値観の助言ではなく、神の価値観による命令の言葉でした。弟子たちは、自然の猛威に対するイエス様の圧倒的な権威と力に驚きました。それに対してイエス様は、1)なぜ恐れたのか、2)信仰は持っていないのか、という二点を弟子たちに詰問しました。つまりこれは、あなたたちは信仰していると思い込んでいるだけで、ひとたび試練に会えば、人間的な価値観による発想しか生まれてこない、という叱責だと思います。天の人であるイエス様にとって信仰を持って生きるとは、恐れとか人生への未練とかとは無縁の生き方のことだったのです。

そして、マルコ福音書の記者は読者に、問いかけます。そして、このことがまさに福音書が書かれた目的だともいえます。それは、「イエス様とは、あなたにとってどんな方ですか」という問いかけにほかなりません。自然法則をも支配する神の子として、あなたはイエス様を信じ、神の平安に生きていますか。それとも、逆ですか。まだまだ、人間的な価値観の沼に沈んでいますか。あなたは地上世界の波や喧噪に巻き込まれてはいませんか。そのように問いかけられているわけです。すると、これはもはや、遠い過去の、未知の場所の嵐のことでもガリラヤ湖のことでもありません。今、現在、わたしたち自身が置かれている場所での、問いかけなのです。わたしたち自身の信仰が問われているのです。それがまだ人間的な価値観に染まっているのか、それとも超越的な救い主イエス・キリストへの天的な価値観に置き換えられているのかです。

イエス様の伝道では、病気が癒され、奇跡が起こったので、群衆がイエス様のもとに押し寄せました。でも、十字架刑の後には誰も残りませんでした。地上的な利益という人間的な価値観を信じていたからです。彼らは皆、地上世界の奴隷です。パウロも人間の不自由性とか心の奴隷状態に敏感な人でした。ですから、以前の自分は「世の霊の奴隷だった」(ガラテヤ4:3)と語っているのです。

では、本当に大切なのは何でしょうか。それは、地ではない。あの人この人、あの場所この場所でもない。神の国と神の義、つまり地上に来られた神の子が本当に大切なのです。これしかないのです。ですから、わたしたちの人生で、日々の暮らしと生きることとは大切でなくはないが、第一のことではありません。第一のこととは神のことです。モーセの十戒には、一番大切なことが最初の戒めに書いてあります。「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。」(出エジプト20:2以下)それをイエス様は要約して、「神を愛する事、隣人を愛する事」(マタイ22:37以下)を第一としたのです。

人間には原罪があるので、どうしても地上世界の価値観の奴隷となっています。この点については福沢諭吉も嘆いていました。彼は煙草を止めようとしたら、酒癖もついてしまったそうです。自分はなんと無力な人間なのだろうかと嘆息しました。わたしたちも同じです。わたしたちにも罪の悩み、罪の嘆きがあります。そして、この罪とは自己中心性です。自分の満足、自分の幸福、自分の安全を求めるがゆえに、それが悩みや苦しみの原因となるのです。イスラエルの民がエジプトという異国の地で奴隷として辛酸をなめたのと同じです。ところが、出エジプトを導いたモーセの十戒も、イエス様の愛の戒めも、自分ではなく神のこと、神が与えた隣人に関心を向けさせるのです。そこに価値観の転換が起こります。思いが天に向いた時に、心の奴隷状態から解放されるのです。これこそ、救いの秘儀と言えるでしょう。イギリスの無学の一信徒であったジョン・バンヤンが書いた本の中に、「丘の上の十字架を見上げたら、背中の重荷が転げ落ちて、自由の身になった」という場面があります。これも、人間的価値観から神の価値観への変換ではないでしょうか。

ですから、復活したイエス様はペトロに「わたしを愛するか」(ヨハネ21:15)と聞きました。それは隣人に対する単なる友情ではなく、「わたしをあなたの神として愛するか」という意味であったわけです。ペトロは後になってこの事の深い意味が理解できました。

最初に申し上げたように、マルコの福音書は、ガリラヤ湖での奇跡をとおして読者に、「いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか」と問いかけました。ガリラヤ湖の「嵐」という言葉は、ヨブ記の38章1節の「主は嵐の中から」と同じです。つまり、マルコの教会の信徒たちは迫害の時代に生きており、まるで揺れる小舟の中の弟子たちのようだったのです。しかし、イエス様こそ、自然現象と、歴史の主であり、天の主、神そのものだとマルコ福音書は伝えています。わたしたちを原罪から解放するために十字架の苦しみを経て復活された方を、神と信じる信仰によって、困難と混乱の中にも静寂と平安をもたらすと、聖霊によって初代教会の信徒、マルコ福音書記者は悟ったのです。そして人々は、迫害を乗り越えたのです。

わたしたちが、現代の社会の嵐に出会うときもあるでしょう。わたしたちは、恐ろしさと困難さに負けて、神の存在を忘れるか、神を呪うこともあるでしょう。神はどうしてこのような試練を与えたのかと疑うこともあるでしょう。神は眠っているかのように見えることもあるでしょう。そして、わたしたちはヨブのように叫ぶでしょう。「神よ、わたしはあなたに向かって叫んでいるのに、あなたはお答えにならない。」(ヨブ30:20)これはまさに、神の沈黙です。

しかし、本当にそうでしょうか。神が愛する者を見捨てているわけではないのです。イエス様は、こんな状況においても天の世界の介入を示し「嵐よ静まれ」と命じてくださるかたです。しかし、それは誰にでも分かりやすい事実ではありません。「この方に従わないものは何もいないはずです。しかし、わたしたちはいまだに、すべてのものがこの方に従っている様子をみていません。」(ヘブライ2:8)以前の翻訳では、「しかし、今もなお万物が彼に服従している事実を、わたしたちは見ていない」(口語訳)と書いてあります。ですから、見ないで信じる信仰をもって、受肉した神であるイエス・キリストを救い主として信じなさいと、聖書はわたしたち語りかけているのです。波は必ず静まるはずです。

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