どんな学校にも入学資格があります。入学資格ではありませんが、オーストラリアから帰国した我が家の孫を連れてディズニーランドに行ったことがあります。年齢はよかったのですが、背丈が足りなくてアトラクションに乗れなかったことがあります。神学校はどうでしょうか。ルーテル教会の神学校の場合には、入学資格として、大学を卒業していることが求められます。また、出身教会の推薦状も資格に入ることでしょう。資格ではありませんが、入学金や授業料も納めなければなりません。そのほかにも、教派によっては様々な資格が要求されるでしょう。さて、インターネット上の神学校はどうでしょうか。入学金も授業料もいらないことは自明の理です。教会を経由してはいないので、無宗教の人や他宗教の人でも入学できます。こうして考えると、無認可神学校とは実に自由なものです。しかし、ひとつだけ問題があります。聖書の世界は近代社会の個人の自由意志とは別の世界なのです。ですから、神学校の入学資格を問うならば、「自分が神学校に入ることを希望している」という姿勢は、どちらかというと不合格だと思います。人間の自由意志に基づく選択の結果、専門学校やその他の教習所ではなく、神学校を選んだというのは不適切だと判定されても仕方がないでしょう。なぜならば、これはキリスト教神学の出発点にかかわることだからです。むしろ、自分は、キリスト教について学んだりするのには向いていないが、そうしなければいけないように背中を押されている感じがするという答えが正解です。一言で言えば、自分はやりたくはないのだけれども、やらざるを得ない、というのが唯一の入学資格です。旧約聖書には、預言者の体験として、このことが書かれています。エレミヤです。彼は、神からの啓示を受け、預言者として働くように命じられました。しかし、彼は拒絶しました。「ああ、わが主なる神よ、わたしは語る言葉を知りません。わたしは若者にすぎませんから。」(エレミヤ書1章6節)つまり、逆説的に考えると、エレミヤには神に従う資格があったのです。自分には向いていないことでも、やらざるを得ないと感じるところに神の導きが隠されています。自分の意志で選んだものは、やがてその価値がなくなった時に、自分の意志で捨てるでしょう。それとは反対に、神学は神の意志を受け入れるところから始まります。さらに、それは、神学校入学資格だけではなく、「救いの原点」であることを考えておきましょう。