「天国に財布を持って行きますか」 マルコ10:17-31
旧約聖書のヨブ記を読みますと、ヨブがとんでもない不幸に出会って、財産を失い、家族を失い、自身も重い病気にかかったときにこう言いました。「わたしは裸で母の胎を出た、裸でそこに帰ろう。」(ヨブ記1:21)またコヘレトの言葉にはこうあります、「太陽の下に大きな不幸があるのを見た。人は裸で母の胎を出たように、裸で帰る。労苦の結果を何一つ持って行くわけではない。」(コヘレトの言葉5:12以下)これは今回の説教題、「天国に財布を持って行きますか」と同じ意味です。この世でわたしたちを悩ますものも、あるいは楽しませるものも、あの世においてそれが続くわけではありません。
旧約聖書にはアモス書という記事があります。預言者アモスが活動したのは紀元前8世紀ごろだと言われています。アモスの名前の意味は「重荷を負う者」です。そしてその特徴は、彼がヤハウェの神の絶対性を説いたことだと考えられています。この神の絶対性を頭に入れておいて、今日の日課を見ると「人間にはできることではないが、神にはできる」と言われたイエス様の信仰心が理解できるきがします。神が絶対だということは、人間は絶対ではなくてよいという意味でもあるからです。
さて、福音書の日課を見てみましょう。これは、金持ちの青年とイエス様の出会いの箇所です。表面的に見ると、この世では、持つものと持たない者との立場の違いがあります。この金持ちの男が持つ人の側だったのは勿論です。お金だけではありません。健康を持つもの持たない者、友人を持つもの持たない者、仕事を持つもの持たない者、力を持つものもたない者、その例は限りなくあります。今日の箇所では、信仰でさえ持つことができることだと金持ちは思っていたのです。ですから、これはヨブの考えにも似ています。だからこそ、彼は律法(掟)を子供の時から守ってきましたと言えたのです。当時のユダヤ教では、律法を守ることは天国への入場券と考えられていました。不思議なことにm福音書に出てくるこの金持ちは、律法を守っていながら、天国である永遠の命の確信が持てなかったという事です。
わたしたちはどうでしょうか。ヨブや、この男のように決まりは守って生きているけど、永遠の命の確信のほうはどうでしょうか。それは確かでしょうか。実は弟子たちもこの時点では、この男と同じでした。確信がなかったのです。ですから、何事もない時は良かったのですが、迫害とか困難の際には落ちこみ、現実から逃避するような人々でした。問題は、彼らの性格や、意思にではなく、永遠の命とか天国にたいする彼らの確信のゆらぎにあったのです。イエス様は、しかし、この金持ちの男を、非難することはありませんでした。ユダヤ教では、清貧という倫理道徳は教えません。イエス様もそう考えていたと思います。人間の側が、金があろうと、金がなかろうと、人間の持ち物の額によって判断しないのが聖書です。問題は、人間が失われているかどうかとことです。もし、失われているならば、それは神との関係が切れていることなのです。ここに罪の問題が顕著です。罪とは、神との関係の喪失だからです。
さて、どんなときに神と共に生きたイエス様はエルサレムに向かい、十字架への道を進んでいく途中でした。神に従ってすべてを捨てる覚悟ができていた時でした。こうした時に、この金持ちの青年がイエス様の前に来て、永遠の命を得ることを願ったのです。物はすでに所有しているので、最後に所有することを願ったのは永遠の命だったのでしょう。マタイ福音書にはこの男が若い人だったと書かれています。ルカ福音書には、この男が議員であったとも書いてあります。どんな形であれ、彼には人望があり、財産があり、若くて健康にも恵まれていたわけです。世俗的な観点から見れば、実に申し分のない人だったのです。一方、イエス様の周りには、苦しむ人々、病気に悩む人たち、罪人として社会の枠からはみ出た人たち、つまり持たざる者が大勢集まっていました。ただ、本当のことを言えば、彼らとこの金持ちには何の差もなかったのです。それはつまり、共に神からの関係を失っていたわけです。きょうこの記事を読んでくださっている方の中にも、神との関係が失われていることがすべての問題の根源にあることに無自覚な方もおられることでしょう。ある面では、記事に登場する裕福で健康な青年とおなじでしょう。
さて、そうした自分の立ち位置に気づかず、この男はイエス様を自分の先生と感じ、自分の人生を指導してほしいと願いました。しかし、律法を守っている彼には、「太陽の下に大きな不幸があるのを見た。人は裸で母の胎を出たように、裸で帰る。労苦の結果を何一つ持って行くわけではない。」という聖書の言葉がまだ理解できなかったわけです。
この福音書に登場する金持ちは、あたかも物質的な財産のように「永遠の命を受け継ぐ」という発想を持っていました。どのように受け継ぐか、という問いかけにイエス様は直接には答えませんでした。彼が「善い先生」と呼びかけたのに対して、善い先生なんていないよ、ただ、神だけが善いのだと語りました。イエス様はアモス書にあるヤハウェの神の絶対性を信じていました。先に述べたように、持つ者持たない者で評価の分かれる人間の価値や、人間の評価ではない神の愛の世界があることをイエス様は知っていました。愛の絶対性とも言えます。ですから、律法を守っていると思い込んでいて男に、イエス様は財産処分が必要なこと、財産を困っている人のために用いることを彼に教えます。ただし、そこが教えの中心点ではありません。ある行動を実践することが重要なのではなく本当に重要なのは、生き方の方向転換でもあります。それは悔い改めの現実的な勧めの場面でもあります。一言で言えば、「天に宝を積む」ことが方向転換です。ルターも「神はあからさまな罪人も偽りの聖人も打倒し、自分を義とすることをおゆるしにならない」、と書いています。だからこれを知って、自分が義ではなく、失われた人間であることを自覚するなら、即時、方向転換となります。失われた人間です。彼もそうでした。今までは財産を蓄積していたのです。真面目な人でしたが、貧しい人の事は眼中にはありませんでした。そこから方向転換して、「天に宝を積む」とは、お金を使って、苦しむ人々、病に悩む人たち、罪人として社会の枠からはみ出た人たち、を助けることでした。それは愛に生きることです。天に宝を積むことです。愛に生きるとは、愛である神に生きること、神と共に生きることです。実際にイエス様はそれを伝道の大切な部分としていました。
そして後半では、金持ちの話から一般論に移ります。財産の価値観、つまり人間の価値判断に縛られながら神の国に入るのはラクダが針の穴を通るようなものだというのです。絶対無理という比喩ですね。これは、金持ちだけでなく、誰にもあてはまることです。つまり、人間的な価値観を捨てず、悔い改めをせずに、神の永遠の命は得難いし、救われ難いのです。では、いったい誰が救われるだろうか、という疑問がわきます。27節で、再びイエス様は人々の視野を神の絶対性に向け、「人間にはできないが神にはできる」、そう教えました。人間にはできないという自覚の確立こそが、神の啓示でもあるのです。そして、預言者アモスが語った、闇を朝に変える主なる神、昼を暗い夜にする主なる神、愛なる神を信じることが福音であり、永遠の命の実現なのです。
勿論、わたしたちは、これからの人生の歩みの中でも、山ほどのできない事柄に取り囲まれるでしょう。しかし、それ自体は悪いことではありません。「天国に財布を持って行けない」と悟ること自体が、福音です。それ自体が悔い改めです。それが自覚できることが、方向転換だからです。
金持ちのように理解せず、弱さを持っているわたしたちでもあります。しかし、この聖書の箇所をとおして、イエス様はわたしたちに永遠の命を与えるために十字架にかかって、不可能を可能にし、死の道から命の道へ方向転換する活路を開いて下さいました。「キリストはご自身をいけにえとして献げて罪を取り去るために現れてくださいました」(ヘブライ9:26)と書いてある通りです。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」(ヨハネ14:6)ともあります。この意味はイエス・キリストの体である教会をとおして、み言葉と聖礼典(洗礼と聖餐式)をとおして、命への道が与えられていることです。