印西インターネット教会

イースターの伝道説教「生きるとは」(静岡県菊川ルーテル教会)

「生きるとは」     ヨハネ20:1-18    2024年3月31日

讃美歌21  328、326,404,81,88

特別の祈り

主なる神様、あなたはわたしたちの救いのために、御子イエス・キリストを贖罪の犠牲とされました。そして、御子の復活を通して、わたしたちを死の支配から解放してくださいました。わたしたちもキリストにならって、日々、罪の生活に別れを告げ、どうか終わりの日には復活の喜びにあづからせてください。

 

生きるとは何でしょうか。黒澤明監督が撮影した映画で、「生きる」という作品があります。これはロシアの作家トルストイの小説で「イアン・イリッチの死」を参考にしたものです。余命宣告され市役所の職員の生き方を描いています。

それはそれとして、わたしたちの人生は、悲しみの人生でしょうか、それとも、喜びの人生でしょうか。

救い主の復活を体験した弟子たちは、その後、喜びの人生を歩み、それを人々に伝えました。今日、洗礼を受ける5人の方々がおられます。その人たちの過去の人生には辛いこともあったでしょう。しかし、洗礼というのはイエス・キリストの死と復活に自分の人生が重なることです。今までの重荷が多い人生から、弟子たちのように、迫害されても、人から差別されても、食べる物がなくても、神の愛を知っている喜びを失わない人生になることです。

ただ、誰でもすぐに復活に意味が理解できるわけでもありません。だから、聖書を学ぶことが大切なのです。

喜びの人生を譬えていうと、それは、クレジットカードのようなものです。誰かが、クレジットカードをくれて、言ったとします。このカードを使えば、あなたがこれから生きていくために、使いきれないくらいの富を引き出すことができますよ。こんなこと、ほんまにあるんかいな、と思う人もいるでしょう。しかし、実は私はそれに似たことを体験したことがあるのです。アメリカに留学していた時に、ある信仰深い人からブランクチェックをいただいたのです。(そのころはクレジットカードはあまり使われていなかったです。)そして言われました。あなたがアメリカで生きていくために、まとまったお金が必要な時があったら、その金額を書いて銀行に持っていきなさい、現金化できますよ。

残念ながら、わたしはアメリカのルーテル神学校に5年間留学していましたが、その小切手は使いませんでした。今考えると10万円くらいは引き出しておけばよかったかとも思います。歯医者の治療費なども200ドルくらいかかり、当時の換算レートでは6万円くらいでしたので大変でした。

皆さんは、どうでしょうか。皆さんも、神様から神の資産をいくらでも引き出せるクレジットカードを持っているはず。まあ、中には見たこともないという人もいるでしょう。それはそうと、わたしたちの内の何人が、その神の富を引き出すことができているでしょうか。できていないなら、あれが足りない、これが足りないと思い悩むのです。

みなさん、この神のプレゼントであるクレジットカードの使い方を知りたいですか。お教えしますので、知りたい人は手を挙げてください。では、お教えしましょう。

クレジットカードのクレジットとはラテン語のクレドーから生まれた言葉です。このクレドーとは、使徒信条のことです。つまり信仰のことです。このカードは使えると信じなければ、ただのプラスチックの板です。わたしがいただいた小切手もそこに金額を書いて銀行にもっていかなかったので、今はただの紙切れです。

もし、皆さんが、本当に「生きる」ことを喜べていないのなら、その原因は、お金ではない、健康でもない、教育でもない、信仰が足りないのです。信仰です。クレドーです。

生きるには、信仰が最も重要です。新約聖書のヘブライ人の手紙11章には、「まだ見えない事実を確信する」ことだと書いてあります。

復活のイエス様に出会う前の弟子たちは、絶望の世界、恐れの世界、不信仰という古い世界に死んでいました。しかし、復活体験によって、古い生き方に死んで、新しい生き方に生まれ変わったのです。わたしたちも、そうなりたいと思いませんか。そう思う人は手を挙げて下さい。

では、その秘訣を教えましょう。これはクレドーの秘訣であり、信仰の秘訣です。それは、クレジットカードの使い方と同じように暗証番号を知ることなのです。暗証番号がわからなくては、隠された神様の富を引き出すことができません。

そのことを頭において今日の聖書の箇所を見てみましょう。幸せに生きるための暗証番号がどこに隠されているか、わかるはずです。

イエス様が十字架につけられた後、マグダラのマリアが墓に行った時には、彼女の心も悲しみで満ちていたでしょう。なぜなら、十字架というのはユダヤ人にとって最も恥ずかしい刑であり、重罪人を罰する時にだけ使われた残酷な刑罰だったからです。マリアは生前のイエス様に7つの悪霊を追い出していただいた女でした。悪霊に支配された彼女の人生は、苦しみの連続だったと聖書は教えています。つまり、苦しい生き方の背景には、神の愛ではなく、悪霊の支配があるということを、わたしたちも忘れてはいけません。偶然に苦しいのではなく、実は悪霊の仕業です。ルターは人間というのは馬のようなものだと言いました。自分で自分の人生を決めているようで実はそうではないのです。馬の上に乗っている者によって動かされているのです。自分の上に神が乗っている時には、喜びと希望の生き方があり、悪霊が乗っている時には悲しみと苦しみの生き方があるのです。これで、皆さんも、神様のクレジットカードの暗証番号の最初の部分が分かったと思います。最初の数字は、自分の上に誰が乗っているかを知ることです。

イエス様が残酷に処刑されたのを目撃したマリアの思いは、痛みと苦しみで、ほとんど以前のように悪魔の支配に戻りそうだったことでしょう。しかし、イエス様を安置した洞窟のような形をした墓は空になっていました。マリアは遺体が盗まれたと思って、さらに悲しみが増加しました。11節にはマリアが墓の外で泣いていたとあります。本当に悲しかったのですね。しかし、それはマリアの人生で復活を知る前の人生でした。マリアはおそらくイエス様の教えが好きだったでしょう。でも。それはマリアの人間的な思いでした。人間的なものでは、それがどんなに素晴らしいものでも、神の義とされません。「律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされない」(ローマ3:20)とある通りです。「この民は口先ではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている」。(マタイ15:8)教会でも、この人間的な問題は頻繁に起こります。

教会で会議をすると、人間的な考えを陳列した品評会みたいになってしまうことがあります。そこには、希望がなく、神の愛がなく、喜びがないのです。残念ですが、人間的な考えの人にとって、神のクレジットカードの暗証番号は永遠にわかりません。恐ろしいことに、皆さんのほとんどがそういう人です。教会がそういう人の集まりだから、衰退するのです。心の中からは、悪い思いが出てきて人を汚す(マタイ15:20)とイエス様も教えました。その反対に、「神様はこのように望んでおられるのではないでしょうか」という意見が、信仰的には正しい意見であり、暗証番号の次の番号です。

ただ、その自分の考えに支配され、悪魔の打撃をうけて悲しみに沈むマリアを神様は見放すことはありませんでした。天使が現れました。ここから事態は急展開しますね。救いは常に外から来ることを覚えましょう。これもまた、暗証番号の次の番号です。幸せな人生は、自分の努力や立派な態度の結果ではないのです。神の愛の結果なのです。

泣いているマリアに対して、天使はなんで泣いているのかと聞いています。ここまでがマリアの人生での、復活を経験する前の古い人生です。神様が与えるクレジットカードの暗証番号をまだ知らなかった時代の生き方です。「喜び悲しみ繰り返す」という歌詞そのものの時代です。それは、旧約聖書には「風を追うような空しい人生」(コヘレト2章)だと書いてあります。パウロも、第一コリント15:17で復活を知らなかったら、信仰さえ空しいと教えています。

マリアが泣いている時、今度は、復活されたイエス様がなんで泣いているのかと尋ねました。そして、2024年のイースターのわたしたちにも尋ねていると思います。「なぜあなたは、泣いているのか、なぜ悲しんでいるのか、なぜ悩んでいるのか、なぜ辛いのか、なぜ寂しいのか、なぜ空しいのか。」どうしてだと思いますか。

実は、人生の痛みや苦しみは、復活のイエス・キリストに出会うための痛みだったのです。復活体験によってマリアの人生は変わりました。悲しみの人生から、復活の主を見たという人生、喜びの人生になりました。パウロも第一コリント15:26で、キリストの復活によって死(悲しみの極限)が滅んだ、と宣言しています。わたしたちを悲しみと辛さによって支配していた馬の上の悪魔が滅んで、命である神が支配するようになること。これが、「生きる」という根本的な意味です。

黒澤明監督の映画「生きる」も、死を宣告された悲しみの人が、隣人のために公園を作ることに奔走するようになったときに本当に生きたのです。神が支配するということは、神がかりになるのではなく、神がすべての人を愛しておられるように、隣人を愛すること隣人のために生きることです。社会福祉活動であるウォーターバレーで行われていることです。それは、困っている人を見放さないで連帯責任を持つことなのです。自分が死んでも、隣人に幸せを残したいという思いなのです。まさにイエス様の思いなのです。この考えに立った時には、カインとアベルの兄弟殺人事件のように、相手の欠点を非難するのではなく、その欠点克服のために自分を犠牲にして助けを与えることができるようになります。

菊川教会にしても、ウォーターバレーの人にも、本当に生きる機会は与えられています。それは、十字架です。神の富を引き出す最後の暗証番号は、痛みです、自分が負うべき十字架です。自分の満足を求めて教会に来ている人は、満足できなくなると去っていきます。神のクレジットカードの使い方を知らないまま去っていくのです。残念なことです。

この十字架の意味、隣人への犠牲的愛、これを発見することが復活を知ることであり、すでにポケットや財布に入っている神様の豊かな人生のクレジットカードを自由に使いこなし、神様の与えて下さる無限の財源を引き出して、幸せな人生を送り、周囲の人びとにも、この幸せな人生を分かち合うことです。これが、神様がわたしたちに望んでおられる、「生きること」です。

今日は洗礼式があります。それは古い人生に死んで喜びの人生に生まれ変わらせていただくことです。そしてやがて、この地上の命が終わっても泪ではなく感謝があふれるでしょう。パウロはこう諭しています。「こういうわけですから動かされないようにしなさい。人間的な考えに惑わされないで、しっかり立ち、信仰を捨てず、主の業に励みなさい。」

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