印西インターネット教会

4月7日は菊川ルーテル教会で伝道説教します!

教会の住所は静岡県菊川市本所1200です。JR菊川駅から徒歩10分くらいの場所です。電話0537-35-3871 お近くにお住まいの方は是非礼拝においでください。宗派や宗教の違いは全く問題ではありません。神様にあってはすべての人がウェルカムです。

説教題「信仰の地動説と天動説」     ヨハネ20:19-31

特別の祈り

全能の父なる神様、わたしたちは主の復活を祝うことができました。どうか、あなたにお仕えする喜びを、わたしたちにも与え、やがては永遠の命の祝福に至らせてください。父と子と聖霊のみ名によってお祈りいたします。

讃美歌21

351番、325番、449番、81番、88番

 

昔からユダヤ人は、自分たちはさすらいの旅人であること、日々の生活は神に支えられていることを意識していました。申命記10:18に「神は寄留者を愛し、食物と衣服を与えられる」書いてある、寄留者とは、仮住まいの者、旅する者という意味です。

ある意味では、わたしたちも人生の旅人ではないでしょうか。「俺は河原の枯れすすき、同じお前も枯れすすき、どうせ二人はこの世では、花の咲ない枯れすすき」(船頭小唄、野口雨情作詞、その他の歌詞に、あの町この町、シャボン玉、赤い靴)日本人の旅は淋しいです。シャボン玉や赤い靴の歌も淋しいです。一人で生きていき、一人で死んでいく旅だからです。

しかし、ユダヤ人たちは、淋しい旅でも、その旅の途中で、神はその人たちを愛して食物や衣服を与えてくださり、つまり生活の必要を満たして下さると考えていました。だから孤独ではありません。それだけではありません。あなたたちも仮住まいの者たちを愛しなさいと書いてあるわけです。この世には淋しい人がいっぱいいるからです。つまり、この神さまの教えは、あなたは決して一人っきりではないし、周りにいる人も一人にしてはいけないよということです。それが信仰の基本です。自分中心に考えて、孤独な思いに沈み込んではいけないよ、ということです。

新約聖書の日課であるヨハネの福音書を見ると、イエス様の復活後の出来事が書いてあります。マグダラのマリアは墓まで行って、復活したイエス差に会うことができました。でも、ほかの弟子たちはどうでしたでしょう。迫害を怖れて、家の戸に鍵をかけて隠れていたのです。復活のイエス様に会うことができるのが、お墓だけなら、彼らは決して復活を体験できなかったでしょう。人間というのはいつも自分中心であり、自分を守るのが一番大切だからです。「俺は河原の枯れすすき」、「この世には俺しかいない、俺が俺を守らなければどうなるのか」という人生の生き方です。

つまり、ここで問題なのは、人間の意識の問題、人間の孤独な人生観です。もしかしたら、わたしたちも、心の扉に鍵をかけているかも知れない。そして、孤独に沈んでいるかもしれません。こういうことは、周囲に友達や家族がいても起こります。こんな話があります。あるところに、高齢のおばあちゃんが家族と一緒に暮らしていました。ちょっと我儘なひとで、皆は避けていました。「ねえ、お茶入れてよー」とおばあちゃんはいいました。何回か言いましたが、みんなは無視しました。なぜなら、お茶を入れても、お茶がぬるいとか薄いとか、小言が多いからです。次の朝、みんなが起きておばあちゃんの部屋を見たら、自殺していたそうです。家族はいたのですが、孤独を感じたのでしょうね。このおばちゃんも、自分の心の戸に鍵をかけてしまっていたのです。自分もほかの人と交流しないし、ほかの人を心に迎え入れることもしなかったのです。

マグダラのマリアはイエス様の復活を経験して、新しい考えを持っていましたが、ほかの弟子たちは違いました。家にも鍵がかかっていたし、心の扉にも鍵がかかっていたのです。実は、これは弟子たちだけでなく、人類全体の問題なのです。ですから、パウロはこう言っています。「正しい者はいない。一人もいない。悟る者もなく、神を探し求める者もいない。」(ローマ書3章10節以下)心に鍵がかかっているのです。

さて、そんな人間をイエス様見捨てたのでしょうか。復活の出来事を読むと、そうではないことが分かります。自殺したおばあちゃんは、見捨てられたと思ったのですが。神様は見捨てません。復活したイエス様が家の真ん中に現れたと書いてあります。家は鍵がかかっていたのですが、それを通り越して弟子たちの所に現れたのです。この時に、「あなたがたに平和があるように」といったと書いてありますが、あまり良い翻訳ではありません。わたしはイスラエルに住んでいたからわかりますが、ユダヤ人たちは普段から「シャローム」と言って挨拶します。それは、「あなたがたに平和があるように」という意味です。エルサレムでさえ、エル・シャローム(神の平和)という意味です。ですから、現代の感覚では、「こんにちは」という挨拶にすぎません。弟子たちは極度に緊張していたのに、復活似たイエス様は、ごく普通に、「やあ、元気ですか」と声掛けしたわけです。弟子たちから見たら緊張の事態、しかし、神様の側に立つイエス様からは普通の平和な一日だったわけです。ここに、人間から見た人生と、神から見た人生の違いがくっきりした対象になっています。鍵とか不安、恐怖の世界ではなく神の愛と平和の世界が比べられています。

ただ、もう一人問題を感じていた弟子がいましたね。彼は、この時、家にいなかったのです。ですから、家に帰って来た時、ほかの弟子たちが、復活のイエス様にお会いしたと言っても、信じませんでした。もう心の中にしっかり鍵がかかっている状態だったわけです。そして言いました。「イエス様の手を見て、自分の指をその手の釘のあとに差し込んでみなければ決して信じない。」まさに、自分の判断が中心です。彼には「信仰とは、見えない事実を確信することです」(ヘブライ人への手紙11章1節)の言葉が分からなかったのです。

これは誰にでもある徴候です。誰でも、自分が見たことを基準に判断します。それが、今回の説教題の、天動説なのです。昔の人は、空を見て、地球の周りを太陽が動いて回っていると考えました。これは、自分が立っている地球は動かなくて、天が動いているのだから天動説ですね。実は、信仰を持っている人の多くも天動説です。自分は動かないで、神様の方が、自分の都合の良いように動いて下さるという考え方です。疑い不快トマスの態度も天動説です。心に鍵がかかった状態です。

しかし、その逆もあります。地動説です。コペルニクスという天文学者は、太陽や星の動きを観察して、地球が一日に一回回転していること、回転しながら、太陽の周りを一年に一回回っていることを発見しました。そうなんです、わたしたちが回っているんです。信仰においてはどうでしょうか。わたしは、信仰の天動説を、クリスチャンでもない農家のおばあちゃんから聞いたことがあります。ある時、わたしが千葉で借りている隣にあった数千坪くらいの麦畑が日照りで収穫前に枯れてしましました。近くにいたこの畑の持ち主のおばあちゃんに、「もう少しで収穫だったのに残念でしたね」と言いました。すると、おばあちゃんは、「お天道様のするいことだから、しかたなかんべ」と淡々と言ったのです。もうこれは悟りの境地ですね。わたしは、信仰の地動説だと思いました。どんな事がっても、それは神の御心なのだから、不平を言っても始まらない、ということです。

信仰の天動説で、自分が指を傷に入れて見なければ信じないと言っていたトマスも、イエス様に出会って、「見ないで信じる人は幸いである」と教えられました。つまり、信仰の天動説ではなく、見ないでも、自分がわたしたちを愛してくださる神様の周りをまわっていること、「俺は河原の枯れすすき、同じお前も枯れすすき」というように見える人生の旅路も、神様が共に歩んでください、必要な物を与えて下さっていることを、信じることが大切です。それが、信仰の地動説です。そして、信仰の地動説に立てば、恐れ、失望落胆、絶望、ストレス、嫉妬、怒り、孤独感はありません。心には鍵はいりません、シャロームであり平和です。申命記10:18を少し書き直すと「神は人生の旅人であるあなたがたを愛し、食物と衣服を与えられる」となります。この神の愛を中心にした考え方が、信仰の地動説です。最後に、心の鍵、太陽と地球、見ないで信じる信仰、この三つを覚えておきましょう。

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