印西インターネット教会

人生街道の行く末に迷ったときに読む説教

「人生の交通標識」         ルカ24:36-53

 

福音書は4つありますが、そのほかの福音書の記者が、イエス様の誕生から伝道、そして十字架と復活を記録したのに対して、ルカは、前半は同じでも、そのあとに弟子たちの伝道の働きを伝え、信仰者たちに励ましを与えたかったようです。その意味では、今日のイエス様の昇天の箇所は、前半と後半をつなぐ、ちょうど橋のような重要な役割をしていると考えてもよいと思います。

最初にイエス様は、シャローム(平和があるように、という意味の日常的挨拶)と言って、弟子たちに復活の姿を現しました。他の箇所には、弟子のトマスが復活を疑い、「自分の指をイエス様の傷跡に入れて見なければ信じない」と語った個所がありましたが、ここではイエス様自らが自分の手足を見せ、弟子たちと食事までしています。

その後、イエス様は以前に弟子たちに語った言葉を強調します。それは、メシアに関する預言の言葉でした。ですから、イエス様の復活は単なる偶然ではないのです。その部分は、原語であるギリシア語を見ますと、数多くの言葉だと強調されて書いてあります。それは他の人の言葉でもありません。イエス様ご自身の言葉です。まさに、イエス様が弟子たちと一緒に過ごしたころの言葉です。つまり、姿だけではなかったのです。姿だけなら、亡霊と変わりませんが、ここでは、イエス様の言葉を伝えることによって、これは、長い歴史の中で預言されてきた、救い主の復活の預言が成就したことを実証しているわけです。人間という存在は、原罪を持っていますから、過去を忘れ、同じ過ちを繰り返しやすいものです。しかし、イエス様は、罪深い人間存在ではありませんでしたし、イエス様の中には神の清らかな霊が働いていました。ですから、イエス様はその霊によって、弟子たちの心を過去に語られた大切な言葉へと引き戻したのです。わたしたちもそうではないでしょうか。苦境に置かれた時にも、過去に親や友人から聞いたふとした言葉が支えになるものです。

さて、ここでのイエス様の強調点は聖書の預言の成就でした。それも、モーセ五書、預言書、そして詩編の言葉をもって、わたしはあなた方に自分の行くべき道を既に説明したというのです。そこに書かれていることは、救い主に関する預言であって、それらはすべてが実現しなくてはならないし、必ず実現すべきものであるということが強調されています。イエス様はこのことによって、預言の成就だけではなく、わたしたちの人生観、これまでの歩みの総括、これからの進むべき道、そうしたものの在り方を教えていると考えてもよいでしょう。また、それは偶発的なものではなく、その中に確固とした神の救いのご計画があるから、不安になったり短気になったりする必要はない、という深い意味があります。

そのあと、イエス様は弟子たちの心を開きました。ということは、それまでの弟子たちの心は閉じていたわけです。わたしたちの心も同じ状態かも知れません。聖書を読んでも、字面だけで、内容を霊的に理解することが不可能な状態のことです。自分が理解できていないことさえ、理解できない状態です。

同じルカが書いた使徒言行録8:26で、エチオピアの高官がイザヤ書を理解できなかったことが書いてあります。その高官は「手引きしてくれる人がいなくては理解できない」と言ったのです。弟子たちも、まだこの時点までは、聖書の深い意味を理解することができていませんでした。だから、イエス様はその心を開いたのです。暗く閉じていた心の闇に光が射し込んだかのようでした。人間がどんなに努力しても理解できなかった聖書の意味が分かるようになったのです。ここで示されているように、聖書の理解という恵みも、必ず外からやってくるのです。恵みの外来性のしるしです。自分の業績や業ではない。恵みが訪れるのです。このことを覚えていきたいものですね。

小さなことですが、ここで用いられている「聖書」は、原語では書かれたものという意味であるである、グラファス、つまり棒グラフのグラフと同じ意味の言葉が用いられています。つまり、表示用具の意味ですね。多くの人が聖書は読むものだと思っているでしょう。ところが、聖書は読書の為のものではなく、神の真実を表示する物だという、驚くべき事実が、ここで語られているのです。これも覚えておきたいものです。

本屋さんの雑誌のようではなく、道路標識や、信号のようなものであり、人間が何をすべきか、何をすべきでないのかを示すのがグラフであり聖書なのです。ですから、聖書を読んでわからないというのは、聖書を読んでも、自分の進むべき方向性が理解できないということではないでしょうか。赤なのか青なのか。駐車可能なのか、駐車禁止なのか。人生の方向転換が理解できない。これは実に困りますね。それはつまり、わたしたち人間が例外なく無理解に落ち込んでいて、人生において進むべき方向がわかっていない、ということを告げているわけです。

それから、イエス様は、もう一度弟子たちに言いました。救い主は苦しみを受け、三日目に復活すること。そして、悔い改めによる罪の赦しの宣言のこと。罪とは的外れの意味です。悔い改めとは方向転換のことです。ですから的を外れてばかりいた矢が方向転換をおこして、的にぴったり当たるようになるという意味です。それは、イエス様の犠牲の十字架と、復活の新しい命による福音であり、人生の進むべき方向性の指示でもあるわけです。これは、あらゆる国の人びとに対する、良い知らせなので、福音(エバンゲリオン)なのです。そして、弟子たちはそのことの証人(マルトゥリオン)であり殉教者となるものだとイエス様は宣言したのです。

そこから、イエス様は神が弟子たちに約束している救い主の恵みを語ります。「見なさい」、というように注意を引き起こしています。それを天からの力として受けるまでは、やたらに動き回ってエルサレムから出てはいけないと命じました。

それから、弟子たちを連れて、オリーブ山の中腹を上り、両手を上げて弟子たちを祝福しました。祝福しながら離れていったのです。祝福とはその人がいなくなっても恵みが残るようにという祈願です。ギリシア語の写本によっては、ただ遠くに離れたというものもあり、天に昇ったとハッキリ書いていないものもあります。ただ、ここでは消えたのではなく天に昇ったことは使徒言行録を見ても明らかです。地上のイエス様が神のもとにとりなしに行かれた、そしてわたしたちが天と結びついたのです。先に書いたように、ルカはこの部分を大きな転換点としました。そして聖霊降臨につながるのです。それまでは、信仰も弱く、人生の方向性も理解できず、勇気もなかった弟子たちが本質的に勇気ある存在に変わっていくのです。祝福を、言葉だけでなく、実体験として生きる者となっていくのです。それはまた、現代の信仰者への預言でもあります。信じる者には、預言が実現するのです。エバンゲリオンも畢竟は信仰の帰結であるということがわかります。

まとめるならば、弟子たちが天からの力に満たされるすべての準備が整ったということです。つまり、聖書を理解する力が備わったのです。これはすごいことです。エデンの園からの追放以来、天国から隔離されて苦しんできた人類が、天国に戻ることができたのです。パウロも日課のエフェソ書で言っています。「神を深く知る、心の目が開かれるように。信仰者に働く絶大な神の力を理解できるように。」それが起こる契機が、復活を信じる信仰でした。

この、復活を信じる信仰が教会誕生の原点であり、、天の神との橋渡しの場所、昔、ベテルでヤコブが見た天に昇る階段の場所なのです(創世記28:10)。罪が赦され、力の満ちる場所なのです。では何が起こるのか。

木村清松(せいまつ)という明治生まれの伝道者がいました。アメリカのムーディ聖書学校で学んだ牧師で、一生懸命の伝道がモットーでした。ある時、この木村先生が湖でボートを漕ごうとしていたらいくらオールを動かしても一向に進まなかったのです。どうしてでしょう。良く見てみたらボートが細いロープで岸につながれていたわけです。このロープをほどいたら、スーと進んだそうです。普通の人間の意識は原罪という目に見えない細いロープで地上につながれていて、天上の神の世界に入ることはできません。

ですから、大谷選手の通訳だった水原一平氏のように、自分が持っている金では満足できず、人の金を横領してまで、博打にのめりこんだりするのです。しかし、今日の日課にあるように、イエス様の預言通り、悔い改めによる罪の赦しを受け、的を外れてばかりいた人生の矢が方向転換をおこして、的にぴったり当たるようになるならば、聖書が理解でき、自分が何をすべきか、何をすべきでないのかが、あたかも、交通信号を見るかのようにクッキリと示されるのです。自分が人生の道路を進む運転者なら、こうした指標があることは、不慮の死の防止にもなり、大きな安心感を与えることになるでしょうね。

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