はっきり言って、この個所は理解が難しいです。いろいろな解説書を読んでも、納得のいく説明はありません。なぜなら、この個所は、罪と罰に関する箇所だからです。イエス様が常に教えていた、十字架による罪の赦しの部分は存在せず、厳しい裁きと地獄行きの結果しか書いてありません。この個所の並行記事であるマタイ福音書18:6-9も同様です。ただ、ここでイエス様の言葉として繰り返されている「地獄」という言葉にはギリシア語でゲヘナという用語が用いられています。この言葉の語源は、旧約聖書のエレミヤ書32:35の「ベン・ヒノム」です。この言葉がなまってゲヘナになったわけです。また、この場所では、子供たちが異教の神への人身御供として焼かれたそうです。それが、まさに地獄絵図だったのです。しかし、ユダヤ教の学者の中でも、愛の神が、何故このようなことを許し、また罪あるものを赦すのではなく罰するのかということに、疑問を持つ者がいます。ましてや、福音主義のプロテスタント教会が、地獄に落ちないために、罪の原因となる手、足、目などを切りはなすべきだと文字道理に受け止められるでしょうか。ただ、ここを理解しようと思ったら、「神に背いたこの罪深い時代」(マルコ8:38)というイエス様の言葉は見過ごすことができないでしょう。この部分のギリシア語原典を見ると「神に背いて偶像礼拝している罪深い世代」という意味になっています。つまり、神以外のものを絶対的に尊重しているということです。そして、イエス様の教え、旧約聖書にも一貫している教えで「神」とは「無条件の絶対愛」のことですから、エレミヤの時代の人々や、イエス様の時代の人々が絶対愛を忘れて、それ以外のものを神としていたことに対する痛烈な批判が、ここに含まれているものと思われます。さらに考えれば、こうした、どうしょうもない人間の罪性のために、イエス様ご自身が十字架の上で贖いの犠牲とならなければならなかったということではないでしょうか。なぜならば、福音の深い理解には、パウロが語ったように、自らの罪の自覚が重要だからです。パウロは、「わたしには深い悲しみがあり、わたしの心には絶え間ない痛みがあります」(ローマ署9:2)と述べています。なぜなら、旧約聖書続編に、神は「あなたがたのもろもろの悪事のゆえに、あなたがたを鞭打ち、諸国に散らされるが、あなたがたを憐み、すべての国々から救い出される」(トビト記13:5)とも書いてあるからです。基本は福音なのですが、それは甘やかしの溺愛ではなく、厳しさの中で鍛錬し悪に勝つように鍛え上げる愛だともいえるでしょう。その厳しさは「武士道とは死ぬことと見つけたり」(葉隠)という表現にも通じるものがあるように思えます。つまり、神の愛を最優先するがゆえに、自分の手も足も目も二義的なものでしかないと決断するのです。ただ、これまた福音主義的に言うと、そうした勇ましい決断も、罪深い人間にとっては不可能であって、もっぱら聖霊の導きによってのみ可能な、つまり、極限的な方向転換(悔い改めと同義)だと言えるでしょう。ワンポイントのつもりが、だいぶ長くなってしまいました。ただ、ここでのイエス様の厳しい言葉にしろ、トビト記にある神の裁きにしろ、人間であるわたしたちは、罪と罰を突き付けられて、悔い改めを求められているのだと思います。これは福音に反することではありません。究極的には、それが神の救いの方法だからです。人間の善性を信じている者には、この個所は永遠に理解できないでしょう。