印西インターネット教会

愛しているから黙っていられない

ヤコブの手紙1章16節 -21節       

文責 中川俊介

16節では、手紙の受け取り手たちに対して、ヤコブは「愛されている兄弟たち」と呼びかけます。それだけでなく、それに「わたしの」兄弟たちという意味付けを行って、さらに手紙の受け手との絆を強調します。それは、どこかの見知らぬ人々に対するものではなく、ヤコブの心中において切っても切り離せない、深い信仰の結びつきがあったことを示すものでしょう。そして、そうした親愛なる人々に対して、新共同訳では「思い違いをしてはいけません」と勧めています。これには、ギリシア語原典ではプラネット(惑星)の語源であるプラナオーという言葉が使われており、「迷い歩く」、「宗教的な誤謬におちいる」、などの意味を含んでいます。そこで、「惑わされてはいけません」、と訳すのが適切でしょう。他の訳を見ても、「だまされてはいけません」、「惑わさるる勿れ」、「誤りに陥るな」、などがあります。愛のゆえに、ヤコブは善良な信仰者が異端的な方向に向かうことに心の痛みを覚えたことでしょう。この言葉が現在形否定命令形をとっているのは、「ヤコブがこの書簡の宛先の信者が騙されていると、あるいは騙されているかも知れないと考えていたことを意味しています。」[1]こうした「誤りから我々を免れしむのは愛の役目である。」[2] ここには、そのような愛による諭しという思いが込められていると考えてよいでしょう。

騙されている人々に対してヤコブは、すべての良きもの、すべての完全なものは、光である父なる神から降ると語ります。神を光と一致させることは、人類への恵みの源として神を讃美することにほかなりません。「神が悪い考えを持っているのかどうか、つまり人を誘惑(試練)するのかどうかといったことは重大な問題である。」[3] 17節にあることから、逆に推測するならば、惑わされた人たちは、神が与える良き賜物を信じられなくなっていたということではないでしょうか。あるいは、困難な状況の中で、父なる神が善き方であること自体が信じられなくなっていたのでしょうか。それが「霊知主義者(グノーシス)たちの経験であって、自分はこの世界に捕らわれて、押し込まれていると感じ、そのことで創造者なる神を非難している。」[4] 要するに、この世の物質的存在を神の賜物としてではなく、魂の束縛と考えたグノーシス派の影響が問題だったのです。わたしたちもこの世の現実を感謝できなくなる時に、こうした傾向に陥ることがあるでしょう。ですから、ヤコブはここで簡潔な神論を示し、この神には、変化、回転、陰影などがないと述べます。「創造と再創造における神の善性と摂理とが、著者の強調する二点である。」[5] やはりグノーシス派に対する論駁です。光自体でないものは、その立ち位置によって、様々な変化

[1] 山岸登、「ヤコブの手紙、ヨハネの手紙」、エマオ出版、2005年、23頁

[2] ベンゲル、「ヤコブ書註解」、長崎書店、1944年、33頁

[3] D. ムー、「ヤコブの手紙」、いのちのことば社、2009年、84頁

[4] E.フリース「ヤコブの手紙」、教文館、2015年、73頁

[5] R. マーティン、「聖書註解48;ヤコブの手紙」、ワード社、1988年、37頁

や陰影を見せるものです。月がその一つの例でしょう。月自体が光っているわけではないから、影が変化します。「神においては、この相反する光と闇は、対等ではありません。神は徹底的に愛です。神は、変化すると見える時も、その愛においては変化することがありません。」[1] ただ、わたしたちの生活の中では、光である神そのものより、賜物の方に注意を向けることが多いと思います。そして、目の前の現象に影響されて喜んだり悲しんだりしますので、わたしたち自身も実は陰影の世界に生きてしまうわけです。だからこそ、ヤコブは「惑わされてはいけません」と注意して、わたしたちの意識を流転することない愛の神に向けます。周囲の事象ではなく光なる神のみを信じることが大切です。

さらに、神とわたしたちとの関係が18節に述べられています。神はわたしたちが被造物の初穂となるように、真理の言葉によってわたしたちを生み出してくださったというのです。「救いをもたらすこの福音の御言は、創造的な力を有している。」[2] 初穂とはクリスチャンの事と考えてよく(ローマ8:19-23参照)、この初穂を通して救いの再創造が行われるのです。ですから、初穂とは救いのために選ばれ神の愛を受けた人々という意味を持っています。こうしたヤコブの簡潔な表現の中に、神観、創造論、救済論、予定説などがちりばめられています。ですから、これは単なる牧会書簡ではなく、グノーシス派を含むさまざまな異端を論駁するための護教論であったとしてもおかしくないでしょう。古代の異端は現代でも形を変えて出現しますから、現代のわたしたちにとっても、この書を学ぶことは有意義なものです。

ここでもヤコブは、「創造する」という無機的な表現ではなく「妊娠して出産する」というヴィジュアルな表現を用いています。神について、このように自由な表現を用いることができる著者は、純粋なユダヤ人ではないか、あるいはディアスポラのユダヤ人であって、外国文化の素養がある者と考えられるかもしれません。だからといって、ヤコブ書が誤った神観に立っているわけではなく、神は光であり、創造者であるということはオーソドックスな考え方です。しかし、そうした当然のことを敢えて語らなくてはいけない情況というものも、ヤコブの教会が直面する困難さを実感させる事ではないでしょうか。また、小さな表現ですが、新共同訳では「御心のままに」、となっている部分はギリシア語原典に従って考えると、「決められた」という意味もあります。そこには神の愛の予定説のようなものが暗示されているように見えます。「これは最も愛の籠れる、最も自由な、最も純粋な、最も実りの多い御意によってという意味である。」[3] つまり、わたしたちが愛の神によって生み出されたのは、神が愛によって定めてくださったからなのだということです。ですから、ここで、わたしたちは自分たちが父なる神から愛によって生み出された「神の末裔」であるという意識を持つことが大切でしょう。わたしたちは偶然にこの世界に存在し、偶然に消えていくものではなく、永遠の光なる神に所属している人々だというのです。これ

[1] 蓮見和男、「へブル書・ヤコブ書」、新教出版社、2004年、150頁

[2] シュナイダー、「公同書簡」、NTD刊行会、1975年、29頁

[3] 前掲、ベンゲル、「ヤコブ書註解」、37頁

はわたしたちを勇気づけてくれる言葉です。

19節には、「愛されている兄弟たち」という言葉が繰り返され、ひとつの要約がのべられています。これは信徒たちに神の愛を再認識させるためでしょうか。そして、ここでは前回と並行して、命令形が用いられ、これから述べることを「知りなさい」と言います。その忠告とは、すべての人が聞くことに迅速であり、語るのに遅く、怒るのに遅くしなさいということです。これはどの社会、どの時代でも認められる、コミュニケーションの原則でしょう。「怒りを伴う発言は、ユダヤ人・非ユダヤ人の両者の道徳家において、知恵を欠く人間の確かなしるしである。」[1] また、愛なくして、じっと耳を傾けることはできません。顧みれば、当時の教会内で神に背いて多くを語り、感情的になって、人の話を聞かないという問題が生じていたのは、愛を忘れていたためでしょう。それはとりもなおさず、神の語りかけにたいして傾聴しないという態度です。礼拝において、神の言葉を心から聞くことなしに、愛と信仰心は養われません。その結果、様々な軋轢が生じます。また、弟子たちの聞く態度に関して外国では4つのパターンあげられています。第一は聞くに早く忘れるに早いこと、第二に聞くに遅く忘れるに遅いこと、第三は聞くに早く忘れるに遅いこと、第四に聞くに遅く忘れるに早いことです。さて、わたしたちのコミュニケーションはどのタイプでしょうか。「愛するということはコミュニケーションのことです。」[2] おそらく、ヤコブも、そうした弟子たちの状況を知りつつこの手紙をもって諭したのでしょう。また、聞くということは受け入れることであり、その反対が怒りをもって排除するということです。「キリストがあなたがたを受け入れて下さったように、あなたがたも互いに相手を受け入れなさい。」(ローマ15:7)「せっかちで制御されない怒りは罪である。」[3] つまり、性急な怒りによって神の支配から悪魔の支配のほうに移ってしまうのです。ヤコブはさらに続けます。20節で、人の怒りは神の義を成し遂げないからであると言います。「むしろ、人の怒りの無価値を知ることの方が先です。」[4] ここでは神の義の怒りのことは除外されています。ですから、あくまで「人の怒り」なのです。神の義(正義)とは、人の怒りではなく、悔い改めや、無償の愛の中に示されるものと思われます。「神の義とは神が課し給ひ、また神に悦ばれまつる凡ての務めである。」[5] また、怒るということは神が与えた人間関係の破壊であり、兄弟同士がいがみ合うことにほかなりません。「攻撃的な自我はここで短気な怒りと呼ばれる。この自我が登場する所では隣人は退かなければならない。そこでは彼あるいは彼女はその自我の拡大にとって障害物と見られるのである。」[6] ヤコブは、こうしたことが神の天地創造の意図に反していると諭しているわけです。

21節には、さらに具体的なヤコブの助言がみられます。結論的な言葉であるという印

[1] P. パーキンス、「ヤコブの手紙」、日本基督教団出版局、1998年、168頁

[2] 前掲、山岸登、「ヤコブの手紙、ヨハネの手紙」、27頁

[3] 前掲、D. ムー、「ヤコブの手紙」、90頁

[4] 前掲、蓮見和男、「へブル書・ヤコブ書」、152頁

[5] 前掲、ベンゲル、「ヤコブ書註解」、41頁

[6] 前掲、E.フリース「ヤコブの手紙」、74頁

象も受けます。つまり、全部を考慮の上で、汚れを脱ぎ捨てなさいというのです。ここでも、とてもヴィジュアルな表現を用いています。まず、「汚れ」とは、外面だけでなく「罪の穢れ」を示します。これを脱ぎ捨てる訳ですが、それはどのように可能なのでしょうか。もともと罪に汚染されているから、怒りとか争いが生じるわけですが、それを衣服のように脱ぎ捨てることは可能なのでしょうか。著者の意図はわかりますが、キリストの贖罪を抜きにしては不可能なことです。「穢れは御言を聴くことによって浄められる。」[1](ヨハネ15:3参照)また、ヤコブは多くの(溢れるような)不道徳も脱ぎ捨てなさいと命じます。それほどの悪が教会に蔓延していたことは驚くべきことです。ヤコブの苦労も理解できる気がします。そして、重要なことですが、この「脱ぎ捨てる」という解決策の背景にあるものが、個人の努力や熱心さではなく、信仰者の中に既に根を下ろしはじめたみ言葉を受け入れる(歓迎する)ということなのです。ヤコブ書のこの勧めが、もし前半部の「脱ぎ捨てなさい」だけで終わっていたとしたら、正典に入れられるのは無理だったのではないでしょうか。しかし、ヤコブが伝えたいことは、人間の努力や宗教的熱心さではなく、神がイエス様を通して植えて下さり、既に根を伸ばして始めているみ言葉の福音に信頼し、これを柔和な心で受容し、歓迎しなさいということです。それには異論をはさむ余地はないでしょう。異端的な考えでもありません。また、ここでの「み言葉」にはギリシア語の「ロゴス」が用いられていますから、それは福音であり、イエス・キリストの事だと考えれば、なおさら救い主を受け入れることによって救われるという定式が成り立つことになります。最後に、ヤコブは、その受容する行為が、霊的な死に陥った人の肉体的魂を救い出すと言います。「ヤコブが意図しているのは、クリスチャンはみことばによって救われた後、もうそれでみことばとのかかわりは終わったと考えてはならないということである。」[2] 「その救いの力を発揮するためには、絶えず新たに彼らの心に受け取りなおされねばならない。」[3] そこにヤコブ書の願いと、わたしたちの信仰の根拠があることがわかります。だからこそ、聖書研究は必要なのです。

[1] 前掲、ベンゲル、「ヤコブ書註解」、42頁

[2] 前掲、D. ムー、「ヤコブの手紙」、92頁

[3] 前掲、シュナイダー、「公同書簡」、33頁

モバイルバージョンを終了