印西インターネット教会

思想か、行動か

イタリア語の勉強のためにイタリア映画を見ています。「人生は素晴らしい」という映画は、トップランクされているものであり、本当に名作でした。今回は、駄作について書きたいと思います。イタリア映画には、ストーリー性も乏しく、見ていても何が何だかわからないものも少なくありません。今回見た「危険な衝動」というのも、どちらかというとその部類でした。イタリア語の題は、イル・レヴォルシオネですから、革命という意味だと思います。ただ、内容は、大学での学問の限界を感じた三人の若者たちがテロリストになっていった話です。でも、その会話の中に、面白い表現がありました。「行動か、思想か」という点で三人が議論するのです。聖書にも「わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。」(マタイ福音書7章26節)、というイエス様の言葉がのっています。さすがにイエス様は大工さんだったし、イスラエルは地震の多い地域ですから、実践的な教えだったと思います。さて、三人のテロリストたちは、政府の政策に反対して行動をとる決心をしました。ただ、その決心は正しかったのでしょうか。そこで、思想の方も検証する必要があります。前にも書いたことですが、ある文化人類学者の説によれば、世界の都市は、その国の人々の脳内の都市思想の投影だというのです。都市の構築と、構築以前に脳内に形成された思想の関係を示すものだと思います。だとすると、行動の前に思想があるのでしょうか。そうとも言えます。しかし、その脳内思想も脳外の現実の反映ではないでしょうか。ニワトリ(原因)が先なのか、卵(結果)が先なのか。とはいえ、原因であるニワトリも、卵の結果にすぎません。困った循環論です。そこで、これをコンピューターにたとえてみたらどうでしょうか。勿論、行動の方の象徴はハードウェアーである、パソコン本体です。しかし、パソコンを家電店で購入してきて電源をいれてもなにも動きません。ソフトウェアがインストールされていないからです。ソフトウェアこそ、まさに思想と同等の、プログラミングでしょう。人間でも、体という機能は健全でも、脳の機能不全になれば認知症となり、思ったように行動できなくなります。逆に、脳内は正しく機能していても、体というハードウェアが壊れていても、思ったように行動できなくなります。ですから、問題は「思想か、行動か」という二者択一ではなく、この二つが必須だったのです。映画のなかの若いテロリストたちも、自分たちの行動に失敗し、子供まで殺害することになり、逮捕されてしまいましたが、行動を優先するあまり、思想の部分のスイッチが入っていなかったのではないでしょうか。聖書では、ヤコブ書に行動の大切さが強調されています。しかし、よく見ると、その行動は、「御言葉」という、プログラミングを無視しては成り立たないのです。「御言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません。」(ヤコブの手紙1章22節)

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