印西インターネット教会

説教の聞き方が間違っている

ヤコブの手紙1章22節 -27節       

文責 中川俊介

22節からヤコブは再び実践的な面を強調します。み言葉を実践しなさいというのです。これは当然のことです。ただ、その後半の部分で、自分を欺きに導く、聞くだけの者になってはいけないと注意しています。しかし、信仰ということも聞くことから始まるのではないでしょうか。イエス様がマリアとマルタの家を訪問した際も、忙しく立ち働くマルタと対照的に、じっとイエス様の話を聞いていたマリアを、イエス様は「マリアは良い方を選んだ」(ルカ10:42)、と言われたのではないでしょうか。この謎を解くのは、「聞く」と訳されているギリシア語の違いでしょう。ヤコブが禁じているのはアクロアテス(聞く)という言葉であり、これは講堂や法廷などで聴衆がとる態度のことです。一方、マリアが「聞いた」のはアクオーという言葉で、それは「聞き従う」という意味を持っているのです。これは、わたしたちが教会で説教を「聞く」態度にも関係するのではないでしょうか。「今日の牧師先生の話には感動しました」、というのは、もしかしたら、講演会で有意義な話を聞いたのと同じかもしれません。もしそうなら、「聞いて自らを喜ばせる」[1]、ことなのです。むしろ、わたしたちはみ言葉に胸を刺され、罪を悔い改めて、イエス・キリストに従うように導かれる事が「聞き従う」ということなのです。イエス様の教えの中でも、聞いて得る認識と、それに伴う服従とは切り離されないものです(マタイ7:24-27参照)。「真に聞く人は、真に行う人です。」[2] ですから、ヤコブが禁じているのは第三者的な態度でみ言葉に接することなのです。それは欺きに導くわけですが、原語では、自分勝手な推測に導くと書いてあります。「人がみことばを聞いたとき、聖霊はその人の心に語りかけ、それを実行するように促されます。その時、肉がそれに反対します。」[3] 今はその時期ではないと思ったり、他人の目を気にするのが肉の働きです。こうした肉の欺きを自己欺瞞と考えてもよいでしょう。聖霊に導かれてはいないので、「わたしがこのように理解する」ということが中心であり、何度聞いても、「あなたに」従うという信仰の応答が出てこないのです。「そのような者たちは、自分は神と関係を持っていると思っている。なぜなら、定期的に教会へも行っているし、聖書研究にも通っているし、聖書を読んでいるからである。」[4] その点で、わたしたちの「聞き方」に問題があるとヤコブが指摘するのは優れた視点です。それは、イエス様の教えと共通するものです。

そうした問題の原因が、23節以下に書かれています。つまり、聞くだけで実行しない人は、鏡の中に自分の生まれつきの顔を見る人に似ているというのです。ここで、ヤコブはなぜ単なる顔ではなく「生まれつきの顔」としたのでしょうか。それは、聖霊によって

[1] ベンゲル、「ヤコブ書註解」、長崎書店、1944年、44頁

[2] 蓮見和男、「へブル書・ヤコブ書」、新教出版社、2004年、153頁

[3] 山岸登、「ヤコブの手紙、ヨハネの手紙」、エマオ出版、2005年、29頁

[4] D. ムー、「ヤコブの手紙」、いのちのことば社、2009年、94頁

清められていない自己中心的な自分の姿を、聖書を通してみることができるという意味かも知れません。ここで、生まれつきと訳されている言葉は、血筋とか血統とかの意味ですが、天地創造の原点にも関係ある言葉でもあります。

そして、24節では、聞くだけで実行しない人は、どんなに見つめていても、鏡から目を離すと自分がどうだったかをすぐに忘れてしまうというのです。これはどういう意味でしょうか。それはたぶん、講演会で良い話を聞いた人や、テレビで興味深い番組を見た人が、日々の生活に戻ると、すぐに感動を忘れてしまうということを比喩的に述べたものでしょう。「みことばを聞いても、すぐにそれを実行しない癖がついてしまっている人は、みことばを聞き流すことに慣れてしまっています。」[1] ですから、バルバロ訳の聖書の注釈に、「これを実行せずに福音を聞いても、霊的な利益はない」、と書いてあるのです。つまり、実践しないものですから、さらにそのことが心を離れてしまうわけです。簡潔に言えば、良心の咎めがなくなっており、罪の奴隷になっている自分にたいして無感覚になっていると指摘されているのです。これは、どのような信仰者でも陥りやすい自己欺瞞の過ちだと言えるでしょう。だからこそ、ヤコブはその点を鋭く突きあげるのです。愛をもって悔い改めに導いているのです。

25節では、ヤコブの諭しが明確にでています。律法を一心に見つめる人は違うというのです。この場合の「一心に見つめる」とは、鏡の中の自分の顔を見つめるというのとは違った言葉が用いられており、それは窓や戸口から中を見ようと身をかがめるという意味です。また、これには「内側に透入して、隠されているものを探求するという意味が含まれている。」[2] それは、単なる聴衆の域を超えているといえます。そのような姿勢で律法を見つめることは実践者の姿勢にほかなりません。この場合の、「完全な」律法とは、み言葉のことでもあります。律法(ノモス)には冠詞がついていないので、モーセの律法の事ではありません。福音書には、イエス様の言葉として、「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」(マタイ5:48)と書かれています。「わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。」(ヨハネ15:10)つまり、イエス様は律法を愛の律法として解釈し、神への愛、隣人への愛を教えたのです。また、「完全な」律法の「完全」という言葉には、成熟したとか、一人前のという意味もあります。そして、「完全」とは、ヤコブ書自体では、同じ1章の4節、17節で繰り返されている表現です。つまり、ヤコブは単なる行為ではなく、その完成を求めなさいと命じているのでしょう。それに、この「完全な律法」は自由をもたらすのですから、まさに、愛による律法の完成者であるイエス様ご自身をしめすものと考えても誤りではないでしょう。「自由とは利己的な利害観念からの解放と、隣人である弱者の必要に応じて神の御心を実践する能力

[1] 前掲、山岸登、「ヤコブの手紙、ヨハネの手紙」、30頁

[2] 前掲、ベンゲル、「ヤコブ書註解」、45頁

を暗示する。」[1] ですから、自由とはこの点において罪の束縛を受けないということです。この自由の与え主を一心に見つめ、この方に従いなさいという教えは素晴らしいものです。「持続的な効力が得られるのは、人が御言に沈潜する場合のみである。」[2] そして、その側に立ち続ける人は聞き手ではなく、実行者だというのです。ここでは「守る人」(新共同訳)とか、「そのうちに居る者」、「たゆまない人」、「離れぬ人」、などの訳がありますが、意味上の重要性を考えると、信者による努力としての律法の実践ではなく、律法の完成者である救い主の「そのうちに居る者」とした方が、神学的な健全性が保たれるのではないでしょうか。それにしても、「完全な律法」という言葉が、擬人的に用いられていることは注目すべきことだと思います。そして、実践する者は、その行いによって祝福されるのです。み言葉の認識と服従は、幸福に導くともいえるでしょう。つまり、聞いて実践している人の方が幸福なのです。自由をもたらす「律法」とは、それまでのユダヤ教の生活習慣における規則や、その根源であるモーセの律法とは一線を画するものと考えていいでしょう。「その解放は言葉だけのものではなく、御霊、それも律法を満たす御霊からでる解放であり、これこそ霊的で完璧な解放である。」[3] また、御霊とはイエス・キリストのことでもあります。このイエス・キリストの解放によって与えられる自由に踏みとどまり、強制ではなく、聞き従う信仰の従順さによって導かられ者は幸せなのです(ガラテヤ5:13参照)。それは、その通りだと思います。つまり、ヤコブは、何か新しい規則や法則を持ち出しているのではなく、イエス・キリストの教えの基本線に立っているわけです。

ここで、ヤコブは語調を変えます。26節で手紙の受け取り者に語りかけます。そして、自分たちの行いが宗教の外面的行為に熱心であると彼らが自負していながらも、具体的な状況のなかで、自分たちの舌を制御できず、他人の悪口に終わるなら、自分の心を欺いているというのです。「人の口からは、心にあふれていることが出て来るのである。」(マタイ12:34)「心から出てくる悪が人を汚すのである。」[4] これはかなり厳しい指摘です。ただ、聖書は人間的な怒りを禁じているわけではありません。「怒ることがあっても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで怒ったままでいてはいけません。」(エフェソ4:26)手紙の受け取り手はどのような思いをもってこの箇所を読んだのでしょうか。彼らの宗教は、空虚で役に立たず、愚にもつかぬものだといわれているのです。こうした宗教の存在はどのような時代でもあるでしょう。「自分が熱心な信者であると自認しながら、言いたい放題しゃべりまくる婦人に時々会うことがあります。そのような人は、自分は神を喜ばせていると自分自身に思い込ませ、その実、自分の心の中にある支配欲や自己顕示欲を満足させることに熱心であるにすぎないのです。」[5] ヤコブの時代にもそれが教会の中で顕著だったわけです。しかし、もしここで、ヤコブの手紙のような指摘がなければ、キリ

[1] R. マーティン、「聖書註解48;ヤコブの手紙」、ワード社、1988年、51頁

[2] シュナイダー、「公同書簡」、NTD刊行会、1975年、34頁

[3] E.フリース「ヤコブの手紙」、教文館、2015年、81頁

[4] P. パーキンス、「ヤコブの手紙」、日本基督教団出版局、1998年、173頁

[5] 前掲、山岸登、「ヤコブの手紙、ヨハネの手紙」、34頁

スト教は、一つの観念論に陥っていたかも知れません。その点では、ヤコブ書の歴史的功績は大きかったといえるでしょう。

最後に、27節で、ダメ押しがはいります。父なる神の前で、汚れない宗教とは、困難のなかにいる寡や孤児の世話をし、この世から自分自身を傷がないものとして、保持(保護)することなのです。「ヤコブが定義しようとしているのは真の敬虔さなのです。」[1] キルケゴールも宗教の定義に関して、この節に注目したようです。とくに、この世という言葉はギリシア語の「コスモス」であり、本来は秩序という意味ですが、転じて、「神を離れている人間世界」という意味になりました。これに汚染されないように注意しなさいということですが、そうなるように努力しなさいと命令されているわけではなく、ヤコブは真実な宗教の定義を述べているだけなのです。「パウロとヤコブのどちらも人間の堕落を扱う。」[2] 確かに罪ある人間が自分の力と努力で自分を清められるわけではありません。それにしても、真実な宗教という、大上段に構えた定義の後で、その内実は寡や孤児の世話と、この世の汚れに染まらないことだというのは、いかにも竜頭蛇尾の感がします。しかし、「孤児とやもめの困窮を救うことは、今日では、社会福祉事業ですが、旧約聖書においては、それは神の義の一部です。」[3] ですから、ヤコブは旧約聖書から引き継がれている神の義という大命題に触れているのです。そして、教会が抱えている現実的な問題に言及しているわけです。義とは神と人間との愛の関係であると同時に、人間と人間との愛の関係でもあるのです。神を信じ愛することは、弱者を助けることと同義です。「これは極めてユダヤ的思想である。すべての神秘主義がここから閉め出される。」[4] この愛の関係が遮断されるのが罪の働きです。イエス様の教えと行動は、形骸化され形式化され、愛を失った儀式的宗教にプロテストするものでした。ヤコブもその点でブレていないのは価値あることだと思います。「真の敬虔、舌を制すること、虐げられた人々への配慮の例は、この後に続く数章で詳細に説明されるであろう。」[5] つまり、神の義の教えです。

[1] 前掲、R. マーティン、「聖書註解48;ヤコブの手紙」、49頁

[2] 前掲、E.フリース「ヤコブの手紙」、82頁

[3] 前掲、蓮見和男、「へブル書・ヤコブ書」、153頁

[4] 前掲、E.フリース「ヤコブの手紙」、86頁

[5] 前掲、P. パーキンス、「ヤコブの手紙」、173頁

モバイルバージョンを終了