ヤコブの手紙2章1節 -5節 文責 中川俊介
2章1節で、ヤコブはまた手紙の受け取り手たちに「わたしの兄弟たち」と、愛情深く呼びかけます。「これはユダヤ教の説教の中の、奨励の文に用いられた一つの様式として考えることができるであろう。」[1] 親が子に対してそうであるように、厳しいことを伝えなければいけない時にこそ、愛の表現を忘れてはいけないと思います。そうでないと、人は感情を害して、せっかくの忠告も聞こうとしなくなるからです。ユダヤ人は神の愛との関係で人間関係に最善な方法を考慮することができていたのでしょう。
それと同時に、すべての人は平等に愛されているということが、ここには示されています。「兄弟という呼び掛けによってそれとなく示されているキリスト者の平等性がこの勧めの基をなしている。」[2] そこで、ヤコブは、教会内に蔓延するえこひいきを禁じます。「ヤコブの手紙は、一般的な勧めから、貧しい兄弟・姉妹に対する差別が教会内に決してあってはならないという読者への警告に移る。」[3] それにしても、ここでの「えこひいき」というギリシア語が、「顔や外見を受け取る」という意味であることは興味深いことです。「旧約聖書におけるえこひいきというヘブル語の字義的な訳として、新約聖書において初めてこの語が使われた。」[4] ここにも、ヤコブがユダヤ人の信仰の伝統を尊重している姿勢が見られます(申命記10:17以下参照)。これは、人種や階級、性別等が差別の原因になっている現代でも深く考えるべき問題です。「今日、このグローバル化の時代、勝ち組と負け組がはっきりし、貧富の差がいよいよ激しくなる時代、このヤコブの教えは、きわめて新鮮に感じられないでしょうか。」[5]
また、えこひいきといえば、神を信じない人間が本質的なことではなく皮相的な部分で他者を判断していることがよくわかります。それが、神を忘れて、罪に沈む人間の姿だといえるでしょう。「自分が信者であると主張する人は、えこひいきを拒絶しなければならない。」[6] それは、誰が正しくて、誰が間違っているかという考えを捨てることです。パウロが、「正しい者はいない。一人もいない。(中略)なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。」(ローマ3:10以下)と書いている通りです。人間が人間を本当に判断できると思い込むのは幻想であり、我々の意識は偏見にみちたものにすぎないでしょう。ヤコブはそうした偏見を持ってはいけないというのです
[1] R. マーティン、「聖書註解48;ヤコブの手紙」、ワード社、1988年、59頁
[2] ベンゲル、「ヤコブ書註解」、長崎書店、1944年、44頁
[3] P. パーキンス、「ヤコブの手紙」、日本基督教団出版局、1998年、174頁
[4] D. ムー、「ヤコブの手紙」、いのちのことば社、2009年、100頁
[5] 蓮見和男、「へブル書・ヤコブ書」、新教出版社、2004年、156頁
[6] 前掲、P. パーキンス、「ヤコブの手紙」、177頁
が、それだけなら単なる道徳論ともいえるでしょう。ところが、ここでは、栄光の主イエス・キリストの「信仰」に、そういう人間的な考えを混同してはいけないというのです。「信仰」と人間的な裁きや差別化は両立しないのです。また、逆に人間的な判断や思想から「信仰」が生ずることもありません。すべては、神のみ言葉を聞くことから生じる聖霊の働きなのです。イエス様も、「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。」(マタイ7:1)、と述べています。また、この部分は、ヤコブ書がイエス様に言及するとても珍しい箇所です。しかし、イエス様と共通する信仰観や人間観はヤコブ書の根底に常に流れていると思います。また、この表現にヤコブ自身の救い主イエス・キリストに対する信仰観が示されていると思います。そして、そこにおいて、この書が単なる「藁の書」でないことが読み取れます。なぜなら、栄光の主こそ復活の主であり、信仰者に聖霊を与える主だからです。「ヤコブは使徒たるにふさわしく、キリストを神の子として宣伝えるとともに、彼が死人の中から甦り給いしことをも宣伝える。」[1] さて、問題は信仰者が一方では信仰に誇りを持ち、他方では、人々を外観で判断して裁いていることでしょう。ですからヤコブは、単純なる差別の問題を云々しているのではなく、信仰者の「信仰」の質を問い、教会の交わりを分断する人間的判断を禁止しているのです。
2節でこの詳細が明らかにされます。これはまさに外観による差別の例です。ちなみにここで用いられている「集まり」と訳されている言葉、スナゴゲーは、もともとはユダヤ教の会堂を示す言葉ですから、ヤコブが語りかけているのは、ユダヤ教を背景としたクリスチャン達であることがわかります。そして、一つの例話として、会堂に豪華な衣装で、金の指輪をした人が入ってきて、次に、貧しくみすぼらしい服装の人が入ってきた場合を考えさせます。実際にエルサレム教会では、貧しい人々のケアが課題となっていました(ローマ15:26参照)。このことから、他の地区でも、初期の教会には様々な階層の人々が集まっていたことが推測できます。そして、誰もが、おなじイエス・キリストの信仰に立っていると考えていたわけです。彼らは、「単に信条を告白することで満足してしまい、それに伴って必要となる行為をないがしろにしていた」[2]、のです。言葉だけが独り歩きする状態と言えるでしょう。特に、信仰の世界ではこれが顕著に起こりやすいものです。主イエス・キリストが命を懸けて伝えたことが、単なる知識や習慣となってしまうのです。これも、人間の罪のなすことだといわずにはおれないものです。そして、このような欺瞞に陥らない者は皆無といえるでしょう。聖霊の助けなしには無理です。それ故に、わたしたちは、常に聖なるみ言葉を聞く必要があるのです。
続く3節に、人が豪華な服を着ている人に特別に目をとめて、「あなたはこの良い場所に座ってください」と上席をすすめ、貧しい人には、「あなたはあちらに立っているか、わたしの足台の下に座りなさい」と告げる状況描写が見られます。「そういった上席は、ガリラ
[1] 前掲、ベンゲル、「ヤコブ書註解」、52頁
[2] 前掲、R. マーティン、「聖書註解48;ヤコブの手紙」、59頁
ヤの会堂の建て方から分かるように、入り口に近いあたりに置かれていた。」[1] ここで、「特別に目を止め」というのは、あたかも有名人に接するかのように賞賛して注目するという意味です。これは余りにも露骨な差別ですが、それを行うのが、教会で長老的な立場にいる者なのです。ただ、差別にだけ注目してはいけないのであり、「先ず、第一に我々は筆者がこの実例を選んだのはなぜかを問いたださなければならない。」[2] ヤコブの意図は、実際の生活の中で隣人愛を実践することではないでしょうか。その隣人愛は神に由来する無条件のアガペー(愛)なので、そこに差別化はありえないのです。
そのあとで、4節にヤコブは人々の誤りを指摘します。あなた方は神の愛を忘れて人々を差別し、邪悪な考えを持つ裁判官のようになってしまった、というのです。新共同訳では、「裁判官」という言葉は訳出されていませんが、永井訳には、「裁き人になりしにあらずや」、とあります。差別する、あるいは裁くという表現にはギリシア語のディアクリネスタイが用いられていますが、「ヤコブは1章6節でこの言葉を用いており、それは疑いを持つ者が確かな信仰が欠け、心の中が二極に分かれている状態を示している。」[3] これは興味深い指摘です。つまり、外側に現れる差別や裁きは、心の底にある不信仰の反映に過ぎないということです。これはかなり厳しい指摘です。差別するとは、裁く、分離する、判別するなどの意味があり、やはり、神ではなく人間の判断を優先することから生じます。それは、自分の無力さに立つ信仰とは袂を分かつものなのです。罪とは、このように分離・分裂した心の中に潜む蛇のような存在なのです。換言するならば、神への信頼ではなく、人間の考えを絶対視することに裁きの根源があるといえるでしょう。「私たちが、もし人をこのように差別扱いするならば、確かに心の中で聖霊に逆らうことになります。」[4] そして、貧しい者を招かれたキリストの教えに反することになります。
そして、5節では再び、「わたしの兄弟たち」よ、聞きなさいと命じます。それだけでなく、愛されている「わたしの兄弟たち」と呼び掛けるのです。これは温かさはあるけれども、厳しさもある言い方です。そして、神は世の貧しい人々を選び出して、信仰において豊かにし、神を愛する者たちを御国の相続者にしたのではないですかと問いかけます。「新約聖書のほかの書簡がそうであるように、ヤコブはクリスチャンの救いを神の主権的な選びにまでさかのぼらせる。」[5] これは、第一コリント1:26以下に示されているパウロの言葉と同じ考え方です。人間にいかなるプライドも持たせない神の決定なのです。しかし、注意しなければいけないのは、「貧乏や富そのものが人を善にしたり悪にしたりするわけではない」[6]、からです。それでも、パウロは、神が「世の無学な者」、「世の無力な者」、「身分の卑しい者」を選ばれたと書いていますので、この世の力を持たぬ者の方が、神か
[1] シュナイダー、「公同書簡」、NTD刊行会、1975年、41頁
[2] E.フリース「ヤコブの手紙」、教文館、2015年、92頁
[3] 前掲、R. マーティン、「聖書註解48;ヤコブの手紙」、63頁
[4] 山岸登、「ヤコブの手紙、ヨハネの手紙」、エマオ出版、2005年、40頁
[5] 前掲、D. ムー、「ヤコブの手紙」、104頁
[6] 前掲、ベンゲル、「ヤコブ書註解」、56頁
ら純粋な信仰を与えられる機会が多いと解釈できるでしょう。また、「ヤコブの時代には、貧しいという言葉は神学的用語でもあり、この世の富ではなく神の贖罪に信仰の根拠を置く謙虚で敬虔な人々をさす言葉だった」[1]、という解釈もあります。ですから、この神の選びに反することを教会で行ってはいけないのです。神の選びとは、神学でも重要な項目です。「神の恩恵から出る選びは、世がある人間を評価判定する際に基準とするもろもろの事どもに全く縛られない形で発動する。神は人の顔ではなく、心をこそ見たまうのである。」[2] そして、その「選び」の概念が来るべき御国の相続人となる約束に結び付いているのです。「神の国はイエスの説教の中心にあるものであった。」[3] まさにヤコブ書は、イエス様自身の救済観を引き継いでいるといえるでしょう。このイエス様の教えに従った忠告を聞いて、金持ちの人々はどのように考えたでしょうか。そして、それは、日本という豊かな国に生きているわたしたちへの問いかけでもあるのです。
[1] 前掲、R. マーティン、「聖書註解48;ヤコブの手紙」、65頁
[2] 前掲、シュナイダー、「公同書簡」、42頁
[3] 前掲、D. ムー、「ヤコブの手紙」、104頁