「幸いの発見」 マタイ5:1-6
皆さんは500年ほど前に起こった宗教改革のことを聞いたことがあると思います。実は、これがわたしたちの幸福な生活と関係あるのです。逆に、不幸な生活とは、わたしたちをメチャクチャに縛り、不自由にし、不幸にする、律法的な考えに関係があるのです。
宗教改革は幸せな毎日の生活への扉を開いた。
これは、それまで閉じられた本であった聖書の、本文研究が進んだために起こった「原始キリスト教精神に帰るルネサンス的運動」として考える事も出来ます。要するに、理解できなかった聖書の教えが、理解できるようになったわけです。当時の、同じルネサンス的運動が、イタリアにおいては、ギリシア・ローマの古典文化への復帰として表れ、ドイツにおいては、聖書への復帰と言う形で現れたわけです。何か新しいものを創作したのではなく、原点に戻ったのです。
原点復帰は混迷期には大切である。
以前の事ですが、八王子駅ビルにあった古いデパートが閉店し、そのあとにセレオという店が開店しました。名前はセントラルライン(中央線)とオレンジの造語だそうです。JR系の会社です。外観は以前のデパートの建物を利用しているのですが、中はずいぶん現代的に使いやすく改装されており、顧客のニードに答えるという小売業の原点に戻る工夫がなされていました。これが以前のデパートより繁盛しているのは当然です。宗教改革も、新しい宗教の発明ではなく、古くて良いもの、宗教の基本路線(中央線)に戻ったわけです。この視点から見ると、わたしたちの人生や教会生活も信仰の原点に復帰する必要があるように思えます。それが、救いを実感させ、一人一人の幸福を回復するのです。
原点復帰は、幸福をもたらす。
さて、今回の福音書は、有名な山上の垂訓と呼ばれる箇所です。イスラエルの風景写真を見ると、山上の垂訓の場所は、山という名がついていても、下方にガリラヤ湖を見下ろすことができるカペナウム近郊の美しい丘の斜面のことです。わたしもイスラエルに留学した際に行ったことがあります。そこでイエス様は弟子たちにこの教えを説かれたと伝えられています。人間は幸せであるべきだし、既に幸せなのだから、それを各々が発見できるというのです。ロシア正教会などではこれに5章12節前半にある「幸いなり、~天には爾等の報い多ければなり。」までを加えて9句の構成とし真福九端(しんぷくきゅうたん)と呼んで、礼拝などに極めて頻繁に歌われるそうです。わたしたちも、信仰の原点に返って、イエス様の教えを心から受け入れ幸いなり、幸いなり、幸いなりととなえたいものです。
原点とは、後代の神学ではなく。キリストの教えにあるわけです。
教会には色々な人が来ていますが、山上の垂訓をどのように読んでいるか、どのように理解しているかを知れば、その人の信仰の形がわかるといわれています。1節を見ますと、イエス様は山に登ったと書かれています。これがガリラヤ湖をはるか下に見渡すカペナウム近郊の美しい丘の斜面のことです。全員が登ったわけではありません。しかし、岩山ではなく、広々とした草原の斜面でしたので、イエス様が立ったら、そこが高い舞台のようになって大勢の人が教えを聞くことができたと思います。
ここでの教えのテーマは幸いであり、幸福ですが、問題はその理由です。神を信じる事には罪の意識、神から離れている悲しみが伴うので、幸いというのは言い過ぎのように聞こえます。むしろ、己が罪を悲しむのが普通ではないでしょうか。自殺したいような心の痛みも同じです。他者への怨恨、空虚な挫折感、生きる望みの簒奪、これらの原因は神から離れていること、離神にあります。聖書には、神は、愛であり、命であり、光であると書かれています。本当は、この神から離れてはいけないのです。不幸になるのです。
離神は罪であり、罪の結果は死である。
しかし、イエス様は幸いであると教えました。ルカ福音書にも並行記事がありますが、マタイは心という言葉を追加しています。ルカは単純に「貧しい人は幸いだ」と書いています。ただ、誤解しないようにしましょう。ここでの、「心」とはプヌーマというギリシア語であって正確に訳すと「霊的に」ということです。心が貧しいのではなくて、霊的にゼロに近く、無力で、信仰もおぼつかない場合、これは幸いだとイエス様は判断されたのです。何と不思議なことでしょうか。敷衍すれば、正しい人ではなく、罪人は幸いであるというのに等しいでしょう。特に、貧しいというのは、自分には何も持っていないという意味です。霊的にみて、自分には何も持っていない人は幸いだ、何の知識も、敬虔さも、霊的な示しもない者は幸いだ。もしかしたら、山上の斜面に集まった人たちは、霊的に貧しい人々だったでしょう。これは、ガリラヤの田舎ですし、エルサレムのような宗教中心地ではなく、集まった人たちも農民や商人や漁師だったでしょう。その人たちに、あなた方は幸いだ、霊的に何も持っていないが幸いだ、とイエス様は教えられました。霊的に貧しいというのは、信仰的にも貧しいというのです。余談ですが、最初に述べた宗教改革というのは、信仰の豊かさではなく、信仰の貧しさの再発見でした。
原点とは何ももたない赤裸々な自分を発見することである。
自分には救われるための何かあると思い込んでいたのが当時のカトリック教会でした。ルターは何もないと感じました。そこで、どんなに悪くても、どんなに道をはずれても、キリストの贖いによってのみ救われると古代の信仰を再発見したのです。山上の垂訓は人間の道徳をあらわしたのではありません。人間の持ち分のゼロ度を示しているのです。ゼロの時に、神の国はその人に所属しているし、御国がすでに来ているという事実を、イエス・キリストは見抜いていたのです。
これは裸で釘に打たれた十字架の救いともいえる。
では4節の悲しみの場合はどうでしょうか。これは、この世の欠陥を憂いている人です。自分の悪、社会の悪、これを悲しく思っている。除こうとするが除けない。無力を感じている。やはり、ゼロである悲しみを持っている。こういう人は幸いだというのです。自分の中には解決がないのがかえってよい。こういう人ほど、多くの慰めを神の側からの働きによって受けるのです。若い時の預言者エレミヤなどの例も旧約聖書に書いてあります。神は、神の救いしかないと実感している人に本当に救いを豊かに与えてくださる。これは事実です。そして、最大の不幸の中にも、神の幸せは見つける事が出来ると、イエス様は説かれたのです。
五節の「柔和な人」は、「踏みつけられても忍耐している人」という訳もあります。圧迫されている人々です。社会や、他者からの悪意やいじめ、制度的に苦しめられている人です。イエス様の前に集まった人々も、実は、ローマ帝国の支配下、領主の圧政に苦しんでいたことでしょう。それにたいするわたしたちの自然的な発想は、苦しみの根源の除去です。当時の熱心党の人々は政治的にローマと戦い、その影響力を排除しようとしました。現在でも半沢直樹シリーズのようなテレビドラマは人気があります。多くの人が反抗したくても反抗できなくて苦しんでいるからです。熱心党の人々は、ローマ帝国自体をキリスト教化するなどとは思いもよらなかったわけです。悪を排除するという、半沢直樹的発想は理解できるものですが、排除の思想であり、人間的思想です。(共産主義は資本家や地主を排除しましたが官僚主義と一党独裁を生んでしまいました。)しかし、イエス様の教えは神の思想です。踏みつけられて、悲しんで、無力で嘆いている人は幸いだ。もしかしたら、これは、今死にたいと思っている、わたしたちの現実の存在を述べているのではないでしょうか。現実の弱さ、苦しみ、閉塞感、希望のなさ、これは幸いだとイエス様は人々に説いたのです。そして、今日も聖書を通してイエス様は、「あなたは幸いだ」とおっしゃってくださる。その人は、地を受け継ぐ。それは、この現実に生きている地上が変わるということです。ここが、あなたの生きている家庭や社会や学校や職場が神の世界となるのです。
最後の「義に渇く」とは、罪を悲しんでいるということです。自分の中には正しさを一切持っていない人のことです。それは、宗教改革の原点でした。自分の義によっては決して神の前に立つことのできない人々、それは宗教家ではなくイエス様の前の群衆でした。救われないはずのものが救われる。それは真実です。不可能なことが可能になる。それも真実なのです。宗教改革自体が当時の社会では不可能でした。しかし、神は不可能を可能にしてくださったのです。神こそヨシュア記24:17にある「守ってくださった方です」。神は愛であり、限りなく、無条件で愛して下さる方です。だから幸いなのです。この神の愛が、わたしたちの罪のために犠牲となって下さったキリストの贖いの福音に示されています。その印が、信仰心です。宗派は違いますが、日本がうみだした偉大な宗教者である、親鸞や日蓮、道元、あるいはもっと近代の一休さんなどの教えにも、不幸はありません。「霊的」な貧困、無力、悲しみ、圧迫、それは、それとして、きっといいことがあるよとイエス様は優しく約束してくださったのです。結局は人間ではなく、あなたを愛して必要なものを与えてくださる神によるのです。だから今、神を信じることのみで、あなたは幸せを発見できると教えてくださったのです。
最後に一言。
見えない神は見えるものの裏に隠されています。わからない人は、「星の王子様」という童話を読んでください。