あまりカッコいいことではないですが、鬱を自覚したのは高校一年の夏のクラス対抗水泳大会の時でした。その時は自覚がなかったのですが、全校の生徒がプールの周りに集合して、拍手や怒号にも似た喝采の声が響き渡る中、自分は何故か冷たく白けた気持ちでした。後に読んだ、ドストエフスキーの小説の主人公ムイシキンが美しいスイスの風景を見ながら、「この美しい風景は自分とは何の関係もない」、と悲しく思ったのと似ています。背景を考えれば、当時、埼玉県で第一の進学校であった浦和高校ではなく、二番手の川越高校に入学したことが失望の原因だったのかもしれません。幼い時には、母子家庭で育ち、いじめられていたのが心の傷になったのかも知れません。この暗い黄昏のような思念はその後も時々顔をだし、苦しい思いをしました。大学一年生のときに家出し、関西で生活し、その後一年ほど帰らなかった時にも気持ちは沈んでいました。革命活動の夢破れて、一年後に帰宅し、復学し、浪人時代から通算すると7年かけて大学を卒業するまでにも、暗い日々がありました。キリスト教に出会って少し明るい光が見え始めたのもその頃です。やっと大学を卒業し、アメリカの神学校に進んだのですが、修士課程の課題の重さと、生活を支えるためのアルバイトとの両立が厳しく、当時将来を約束していた美しいアメリカ人女性との婚約も破棄してしまいました。キリスト教信仰がなかったら、自殺していたことでしょう。そんな時、同じ神学校に留学していた台湾人クリスチャンの青年が、「主にすべての憂いを投げかけよ」という歌を教えてくれて、心が軽くなった記憶があります。アメリカの神学校を卒業して帰国した後、また日本の神学校に行かないとルーテル教会の牧師にはなれないと知って、これも心が暗くなる材料でした。しかし、他に選択肢はありませんでした。結局、高校を卒業してから、すべての学業を終えた時には33歳になっていました。これも世間の標準から考えれば、超スロー・スターターであり、鬱の原因ともなるものです。ただ、キリスト教教理を詳しく知るに従い、自己受容ができるようになったので、苦しみは激減しました。聖書が教える「神の無条件の愛」とは、究極的な絶対受容だからです。「ああ、自分は自分でいいのだ」と心底思えるようになってから、「ゲド戦記」に出て来る影のような存在であった鬱は影を潜めました。その後、ルーテル教会の事務的・形式的な伝道には満足できず、再度家族ごと開拓伝道に飛び出し、12年間自力で活動した時にも鬱は残っていたように思います。その後、ルーテル教会に復帰し、13年間八王子教会で牧会しましたが、この鬱という影は、まだ、その辺に隠れていて、登場の機会を狙っているとは思います。ただ、もう問題はないです。自分を受け入れるとは、悪い点だけでなく、鬱さえも受け入れることだからです。鬱と仲良く歩む人生です。同じく鬱だったドストエフスキーも、シベリア流刑中にキリスト教信仰を得て、鬱をバネにして良い作品を生み出す事が出来ました。神の造形には無駄がありません。神の受容を知ったダビデはこう書いています。「神よ、わたしの愚かさは、よくご存じです。罪過もあなたには隠れもないことです。」(詩編69編6節)「貧しい人よ、これを見て喜び祝え。神を求める人々には、健やかな命が与えられますように。」(詩編69編33節)また、聖書にはこうも書いてあります。「主に望みをおく人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない。」(イザヤ書40章31節)