ヤコブの手紙4章1節 -6節
ヤコブはさらに教会内の争いの原因を解明し、人々に悔い改めを迫ります。「彼が見ているものは口論と争いである。そこから彼が結論づけるのは、激情と熱情に支配されている幸福主義型の人間である。」[1] 1節を原語で詳しく見ると、戦闘はどこから来ているのか。また論争はどこから来ているのかと書いてあり、「どこから」という表現が繰り返されています。これは単なる写本のミスなのでしょうか。それとも、意図的にこのように繰り返されているのでしょうか。この「どこから」というギリシア語は、ものごとの起源とか、発生原因を問う言葉です。であるとすると、ヤコブが争いの原因を究明しようとしていることは明白です。手紙の読者の一部が神の御心ではなく、自分たちの幸福を第一としていたからです。「ヤコブがこの手紙で言及しているのは、他でもない、まさに平和を失った教会についてなのである。」[2] それにしても、争いに関する言葉もくりかえされていますが、これはどうしてでしょうか。最初の「戦闘」という言葉は政治とか国家という言葉に関連している用語ですから、人々の考えの違いから政治的な争いが生じるという意味があるでしょう。後者の「論争」も時には戦闘と訳される場合もあるようですが、やはりこれも語源を辿ってみると、人を刺すための短剣と同系の用語ですから、鋭い言葉で相手を傷つけるというニュアンスが含まれているのは確かでしょう。こう考えてみますと、ヤコブがいかに用語を選んで、問題の根源を明らかにしようとしているかが伝わってきます。「それはもちろん実際の武器による命のやり取りのことではなく、あくまで比喩的な意味での戦いや争いである。」[3] そこで、ヤコブは、ビジュアルな表現を多用するだけではなく、用語においても細心の注意を払い、伝えたいことを的確に表現していたことがわかります。
そして、ヤコブは争いの根源が、ここにあること、つまり人々の肢体のなかで戦っている欲望、幸福追求が原因だとします。「神への祈り求めは、単なる願望・欲望とは違います。」[4] この場合の肢体は、教会の事を示しているのでしょうか。ヤコブの意図が判断しにくい部分です。「4章では、不和、争い合い、際限のない個人主義が罪と言われているのである。これはキリストの体に反対する罪である。」[5] ですから、やはり、肢体とはキリストの体を表していると考えてもよいでしょう。
2節で、この点をヤコブはさらに詳しく述べます。あなたがたは、熱望するが、それを持っていないので、人殺しをおこない、妬むが獲得できず、さらに争うが、あなたがたの求めるものを得ることができない、と告発するのです。彼らは神が与える霊の実である平和を求めても得ることができなかったのです。それにしても厳しい表現です。過去には、写本の間違いではないかとの意見もありました。ただ、ヤコブの時代には、宗教的な意見の対立から殺人までに発展したケースもあったようです。そう考えると、イエス様の十字架も一種の殺人だと分類してもおかしくないでしょう。「初代教会が受けた迫害の苦しみは、妬みや熱心によるものであった。」[6] それは、迫害者が人間的な平和を求めた結果でした。それにしても、どうして、ヤコブは教会員をこれほど批判する必要にせまられたのでしょうか。その根本問題は、争いを起こす人々の心の中には、貧富の差や、宗教的立場の違いから生ずる常に満たされない思いが隠されていたという事です。「確かにすべての戦争は、人間の心の中の罪から発しています。」[7] それは欠乏感とも言えるでしょう。神を認めない人間の罪の問題なのです。「貪る者、殺す者、戦いを好む者は祈ることが出来ないからである。」[8]
3節には、ヤコブ自身の意見が表明されます。人々が、求めても得られないのは、彼らが霊的に間違って求めているからだとヤコブは言います。求めている動機が神の意思や隣人愛とかけ離れているから、いくら求めても得られないのです。それは、彼らが邪悪な欲望のために、その機会を用いようとしているからだとします。ヤコブは表面的な対立という事象からスタートし、論述を深層にまで展開します。原因は、霊的な問題にあるのです。
4節では、さらに強い口調でヤコブは告発します。写本によっては、「姦淫の男や姦淫の女よ」、と呼びかけにおいても男女の区別を出し、誰それの例外なく、この世への愛着は神への憎悪、あるいは背信となるとします。この原因は肉的な世界観にあります。聖書の翻訳によっては、姦淫の者は、不信仰者とも訳されています。それが無神論者と違う点は、信仰を持っていると称しながら、その実、この世の価値観を神のように崇めているから背信行為となるのです。「世は、サタンの支配下にあり、肉の世界であることも真実です。」[9] 世の友は、神の敵なのです。ここで、ヤコブの説く姦淫の意味が分かります。それは、男女の関係以上に、ヘブライ思想にある、神以外のものを神と崇める偶像礼拝のことが姦淫なのです。「イスラエルの神からの離反はまさしく姦淫として捉えられているのだ。」[10] つまり、ヤコブが厳しく指摘している、教会員のあいだの姦淫問題とは、教会員が神の教え以上にこの世を友とし、この世の価値観や世界観に染まっているという点なのです。そして、それは、彼らが言葉では神を賛美しても、その内実は神への背信に過ぎないということです。ですから、もし人々がこの世の友となるなら、神の敵と定められるのです。そこで、ヤコブは悔い改めを求めています。ヤコブの厳しさは、実は、悔い改めへの促しです。
5節で、ヤコブはさらに批判します。彼らは聖書の言葉、つまり「神はわたしたちの中に住まわせた聖霊を妬むほどに愛している」、ということを見せかけだけだとか、現実的でないと思っているのかと問いかけます。勿論、それは無意味な言葉ではないのですが、ヤコブは権威ある聖書の教えを引用し、それを無視する者たちへの警告としています。「このねたみという言葉は、ふつう悪い意味で使いますが、ここでは神の異常な情熱を表しています。それは他の選択がないほど愛しておられるという意味です。」[11] この愛をわたしたちが受けるときに、何の不足を覚えるでしょうか。それは新約聖書にも一貫した考えです。それは、この世とか、肉的とか、欲望の世界の正反対の世界を示しています。この聖書の権威ある愛の宣告がわからない限り、わたしたちは常に罪の奴隷なのです。「従って、罪にも救いにも何ら関わりのない」[12]、生き方そのものが、神から疎外された奴隷状態ともいえるでしょう。「5節に書かれている神の妬みとは、争う者たちがその敵意を捨てて、神のもとに帰るように、神が求めているという意味である。」[13]
6節でヤコブは主張します。神はより大きな恵みを与えるというのです。そして、ヤコブは聖書を引用し、「神は高慢なものに敵対し、謙虚な者には恵みを与える」(箴言3:34参照)「謙虚な人が高慢になるとき、彼は同じ裁きを受ける。神は高慢な人々に対して戦闘態勢を取って立ちはだかるのだと文字通り書かれている。」[14] わたしたちは、この点に関して、自分で努力して変えることはできないので、ひたすら神に罪の赦しを願うべきなのです。謙虚とは、外面ではなく、悔い改めて神の御心に従うことです。その低さこそが神の求めておられる信仰者の姿勢なのです。また、「恵みとは人間の罪深さに勝利する神の力や愛を示していると言えよう。」[15] 罪あるわたしたちに足りないものを、神は要求することなく、かえって与えて下さるのです。ここでも、ヤコブが主張している信仰観はまさに「恵みのみ」であり、神の赦しに立つ考えなのです。
[1] E.フリース「ヤコブの手紙」、教文館、2015年、128頁
[2] R. マーティン、「聖書註解48;ヤコブの手紙」、ワード社、1988年、144頁
[3] シュナイダー、「公同書簡」、NTD刊行会、1975年、70頁
[4] 蓮見和男、「へブル書・ヤコブ書」、新教出版社、2004年、174頁
[5] 前掲、E.フリース「ヤコブの手紙」、129頁
[6] D. ムー、「ヤコブの手紙」、いのちのことば社、2009年、163頁
[7] 山岸登、「ヤコブの手紙、ヨハネの手紙」、エマオ出版、2005年、80頁
[8] ベンゲル、「ヤコブ書註解」、長崎書店、1944年、109頁
[9] 前掲、山岸登、「ヤコブの手紙、ヨハネの手紙」、82頁
[10] 前掲、シュナイダー、「公同書簡」、72頁
[11] 前掲、蓮見和男、「へブル書・ヤコブ書」、176頁
[12] 前掲、 ベンゲル、「ヤコブ書註解」、111頁
[13] 前掲、R. マーティン、「聖書註解48;ヤコブの手紙」、151頁
[14] 前掲、E.フリース「ヤコブの手紙」、132頁
[15] 前掲、D. ムー、「ヤコブの手紙」、170頁