印西インターネット教会

春の到来を待ち望んでいる時に読む説教

「春は既に来ている」     ルカ4:16-32

寒い冬のさなかに桜の木を観察しますと、すでに春に咲く蕾がついています。まだ寒くて雪が降ったりしている間にも、草木は既に春の準備を終えています。イエス様のお生まれになる前に、母マリアは、生まれる子がいと高き方の子となるという天使のお告げを信じました。またその話を聞いた親戚のエリサベトは聖霊に満たされ、「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、何と幸いでしょう」と言いました。人類の救いを完成する救い主が誕生する以前に、その働きを信じる者が現れたのです。教会の暦では、今が待降節節ですが、まさに神の救いの予兆が表されているのです。降誕節(アドベント、進んでくるの意味)にあらわされる救いは固定されたり、静止したものでなく、はるか遠くから運ばれてくる春の訪れのようなものです。

イエス様の伝道の旅は、あるときはヘルモン山に登り。ある時は地中海の沿岸都市をまわりました。エリコという死海近くの亜熱帯のような低地にいったこともあります。常に前進していました。どこにでも行って福音を伝えたのです。その点では、このインターネット教会の伝道は、すこしナマケモノかも知れません。現代では、デスクに座っていても世界中の人と交信できるからです。ところが、イエス様の旅は「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが人の子には枕する所もない。」(ルカ9:58)とあるように、あてどもない伝道の旅であったのです。

伝道者は孤独である。

今日の箇所はその福音伝道の初めのころの記事です。誘惑の山で悪魔の試練を受けたのち、イエス様は故郷のガリラヤで伝道し、ナザレにも立ち寄ったのです。ある人は言います、「悪魔に勝つと、わたしたちはいっそう霊的に強められます。」ルターも試練こそ、信仰を学ぶ一番良い学校だと教えています。試練こそ、人を良くしたり悪くしたりします。いわば、分水嶺であって、そこから流れる先が、聖霊の海なのか、悪霊の海なのかが分かれます。

イエス様は、故郷のナザレに久しぶりに戻り、ユダヤ教の会堂で、礼拝で聖書朗読し、そのあと説教したのです。イエス様が聖書を大切にしたことがわかります。しかし、どのように大切にしたのでしょうか。その時の印象深い言葉が21節の「この言葉は、あなたが聞いた時に、実現した」という名言です。これが聖書に対するイエス様の信仰姿勢が凝縮した言葉といえるでしょう。これを聞き逃してはいけないのです。イエス様によれば、罪の解放、人類の自由、主の恵みは「既に」実現したというのです。イエス様は、まだ、十字架にかかっていませんし、復活もしていません。しかし、聖書を読んで、イエス様は、「この言葉は、あなたが聞いた時に、既に実現した」といわれました。聖書は、人間の思想ではなく、神の言葉だからです。神の約束によれば、救い主がこの世に到来したことによって、死の力である悪魔との戦いは終わり、わたしたちの解放が約束されたのです。クリスマスこそ、この救い主の到来と、わたしたちが罪から解放されることを感謝する時なのです。

22節では、人々がイエス様の説教を聞いて賞賛したとあります。人間は常に外側に注目します。賞賛も軽蔑もすべて外面です。説教に感心しましたが、彼らは、すぐその後で、イエス様がヨセフの子であることを知って失望したのです。

では、わたしたちはどうでしょうか。やはり、自分の目で見て、自分の手で触ってみなければ信じられないのではないでしょうか。わたしも以前はそうでした。これは経験がないとわかりません。桜の木を見たことがない熱帯地方の人が、遠くから桜の木を見ても、まるで枯れ木なのです。彼らの目には、その枝の一つ一つに、蕾のかたちで既に春が宿っていると見る事が出来ません。現在しか見えないのです。

わたしたちの悲しみは、現在しか見えないことに起因する。

目を転じて、人生の春を考えた場合、見えないのに誰が信じられるでしょうか。誰が春が既に来ていると信じるでしょうか。キリスト教を信じていない人がクリスチャンに、信じたら何が変わるか証拠を見せてくれ、と要求することがあります。目で見て確認したいのです。クリスチャンなら、その人の行動が立派でなければ信じない。願いがかなうとか、病気がいやされるとかの証拠がなければ信じない。これは、ナザレ住民が言った言葉と同じです。彼らは、「医者よ自分自身を治せ」と要求しました。これは神を試みる態度です。結果を見るまでは信じない、という態度です。神は結果の前に兆候を与えます。ですから、聖書には、「信仰とは見えない事実を確認することです。」(ヘブライ11:1)と書いてあるのです。見えることに先だってみ言葉が「既に」実現しているという状態があるのです。

まだ見えないのに幸せが来ると信じる人は幸いです。

イエス様は、疑う人ではなく、信じる人でした。み言葉の実現を確信する人でした。エレミヤ書の日課に「わたしはあなたを聖別し預言者として立てた」とある通りです。イエス様は「神を信じなさい。少しも疑わず、自分の言うとおりになると信じるならばその通りになる。すでに得られたと信じなさい。」(マルコ11:22以下)と教えました。ところが、普通人間は、ナザレの人々が、「ヨセフの子ではないか。」と言ったように、古い容器、古い革袋、つまり古い思考法に固執しようとします。子供の時のイエス様しか見ないのです。わたしたちも同じです。「あなたは変わった。もはや昔のあなたではない。神はあなたに新しくしてくださいました。」というメッセージを聞いても、なかなか信じられません。しかしイエス様は、イスラエル人であっても神を求めなければ救いはなく、その時、救いは異邦人に移されることを新しく述べられました。すると、そこまで黙って聞いていた「善良な人々が」怒ったのです。見たものだけを信じるという態度だったからです。

どんな大事業でも、最初はなにも見えない時がある。しかし、この聖書に触れたあなたには、神は偉大な計画をお示しになる。

ですから、今日の個所はナザレ住民だけでなく「教会の不信仰」について述べている箇所とも言われています。この世の教会は、予算とか、計画を信じているのですが、不可能を可能にする神の愛の業を信じられなくなっています。わたしは退職していますが、時々送られてくる教会の機関誌を読んでも、現在のことばかりが書かれています。コロナでコロナに困っている、あんなに困っているとしか書かれていません。しかし、疫病というのは、旧約聖書の出エジプト記にあるように、過越祭の起源であり、イースターの起源であり、死の世界から解放される復活のメルクマールとしての重大事なのです。しかし、現在の教会の人々の多くも、残念ながら、ナザレの民と同じです。信じないときにイエス様は奇跡を起こしません。

教会のミッションは大きなものです。全人類の救いです。勿論、わたしたち自身や、家族や親族、友人たちの救いも含まれています。教会の使命を信じなくてよいのでしょうか。イエス様は「神を信じなさい。少しも疑わず、自分の言うとおりになると信じるならばその通りになる。すでに得られたと信じなさい。」(マルコ11:22以下)と言うことができました。エレミヤ書の日課に「わたしはあなたを聖別し預言者として立てた」とある通り、イエス様は聖別された方だからです。教会はどうでしょうか。聖別されてはいないのでしょうか。エフェソ書には教会について詳しく書いてあります。そこを見ると、1章4節に「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、ご自分の前に聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストによってお選びになりました。」と書いてあります。神はわたしたちをも既に聖別しています。わたしたちの良い行いや努力には依らないのです。教会とは、建物や宗教団体や組織ではないのです。今も働く、イエス・キリストの救いの働きなのです。この、インターネット教会もまさにこのパワーを受けたものです。

教会を通して、み言葉を信じる救いの力が与えられている。

わたしたちには、自分が神のために何の花も咲かせない、枯れ枝のように思うこともあるでしょう。サタンの力に潰されることもあるでしょう。しかし、神はサタンをいつまでも放置しません。終わらせます。天地創造の前から神はわたしたちを絶対愛をもって愛し、福音の花を咲かせる準備を行い、蕾を既に形成しています。見えないようですが、既にあるのです。その証拠はなんでしょうか。あなたが、この聖書の言葉を読んで、無限の可能性や、神の絶対愛を信じようとしているからです。どうぞ、ナザレの住民のようにならないでください。神はイエス様を聖別し、わたしたちもイエス様と同様に聖別してくださるのです。

神は信じる者に差別なく救いのパワーを与えてくださる。

それは、わたしたちも、この待降節に、紅く咲くポインセチアのように、この暗き世に絶対愛の光を輝かせ、恵みをつげしらせるためです。わたしたちがどれほど苦難に悩み、絶望し、人生を呪おうとも、エゼキエルの言葉をかりれば、「はなはだしく枯れた谷の骨」であろうとも、神の絶対愛に不可能はありません。「見よ、わたしはおまえたちの中に霊を吹き込む、するとお前たちは生きる」(エゼキエル37:5)枯れ木に花を咲かせ、命を失った者に、命を復活させてくださるのです。聖書の言葉は、これからのことではなく、すでに実現しているのです。イエス様の伝道の初め、「この言葉は、あなたが聞いた時に、実現した」という言葉は真実です。春は既に来ています

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