ヤコブの手紙4章7節 -10節
ヤコブが手紙の読者にどうしても伝えたいことはこれです。7節の冒頭にある「神に従う」ということです。前述された様々な問題の原因は、わたしたちが神に従っていないからだというのです。また、原語の「従う」という言葉は、ヒュポタッソーであり、これは、ヒュポ(下につく)とタッソー(軍隊用語で整列するの意味)の合成語であり、下の階級に任じるとか、自らを権威のもとに服従させるなどの意味があります。ヤコブがこの言葉と神とを結びつけ、「神に従う」としたのはまことに当を得ている事であります。わたしたちが神の御意志を無視、あるいは軽視したりして、自分を頭とし、自分の判断を絶対としているから問題が生じてくるわけです。わたしたちに必要なのは、そうした態度への悔い改めです。「7~10節では、悔い改めの勧めがなされる。」[1]
ヤコブは、神に従うように命じる際に、「ですから」という短い言葉を添えています。これは短い言葉ではありますが、「当然の結果として」という意味を含みます。つまり、他には選択の余地がないという事です。過去の行動を反省するとか、二度と同じ過ちを繰り返さないと誓うことなども無用ではないでしょう。しかし、それでは根本的な問題を避けた形になってしまいます。ヤコブは、やはり言い訳せずに、神に従うことを第一としているのです。
それだけではありません。悪魔と立ち向かうようにも命じています。ここでの、日本語訳は悪魔ですが、サタンではなく、ディアボロスという言葉が用いられています。興味深いことに、この言葉には「悪意をもって訴える」、「人の事を神に告訴する」などの意味があります。わたしたちが聖書を読む際に、また人生の謎を解明しようとするときに、必要な知恵とは、ヤコブが述べるように、悪魔は正義の仮面や信仰者の仮面をかぶった偽善者の中にあるという視点です。「悪魔とは高ぶっている者である。」[2] イエス様の教えに一貫しているのは、人から害を受けた際にも、告訴するのではなく、愛をもって忍耐することでした。やはり、誹謗中傷とは悪魔の仕業なのです。人間は自分の力によってこれに対抗することはできませんが、神の秩序を大切にし、み言葉に従うことによって可能だとヤコブは考えたのでしょう。「わたしたちには悪魔に対抗して勝つ力はありません。」[3] ただ、福音書に登場する百卒長のように、「行けと言われれば行く」ように、神のみ言葉に従うだけです。その時、悪魔は逃げていきます。ただ、決して滅ぼすわけではありません。これは、アンパンマンという漫画のなかのバイキンマンのようであり、少し滑稽なものです。つまり、悪であっても、わざわざ滅ぼす必要もなく、相手が逃げだしたらそれでよしとするわけです。確かに悪の勢力に、限界ある存在である人間が深追いすると、とんでもない逆襲をうけることになります。
次に、8節でヤコブは神に近づきなさいと命じます。その時に、神も近づいて下さると言うのです。これは、「もし人が神に向きを変えるなら、悪霊は逃げていくであろう、という格言(シメオンの遺言)を発展させている。」[4] ただ、ここには、ギリシア語のカイという等位接続詞が使われており、人間が神に近づくことが第一条件としてあって、その条件を満たしたら、神が近づいてくださるという意味ではないようです。もしそうならば、決定権は人間の側にあることになってしまいます。それにしても、この部分は誤解を生みやすいと思われます。「ヤコブは、悪魔は退けることができると確信している。」[5] しかし、新約聖書の他の個所では(第一ペトロ5:8~9、エフェソ6:13等)人が人の力で対抗するのでなく、「信仰に立って」とか、「主に依り頼み」とか書かれています。ヤコブ書にはそれがありません。だからこそ、数世紀にわたってヤコブ書を正典に入れるための議論があったのだと思います。ルターがヤコブ書に同意できなかったのもこうした点があったことでしょう。ルターはむしろ、人間とは、悪魔か神かに手綱を握られている無力な馬に過ぎないと述べています。わたしたちの毎日の生活でも同じです。わたしたちの道徳的、宗教的生活が決定的な条件となって、わたしたちが神に近づくのならば、イエス・キリストの贖罪は意味をなさないことになります。むしろ、わたしたちは無力であり、罪に沈んでいるにも拘わらず、救い主の方が近づいて下さったのです。「自分だけになり、わたしたちの中に住む聖霊の力を無視してはなりません。」[6] 悪魔に対抗できるとしたら、それは内在する聖霊の働きにほかなりません。この点におけるヤコブの真意はもう少し読んでいかないとわからないでしょう。
さらに続いて、ヤコブは「罪人よ」という呼び掛けをして命じます。「これはヤコブが彼の読者を『兄弟たち』と親しく愛情をこめて呼びかけるのとはきわめて対照的であるが、しかし、それがかえって、彼らがかかわっている罪の重大さに気づかせる役割を担う。」[7] こうした罪人に対するヤコブの勧めの第一は、手を清めることです。これは何でしょうか。神殿で神聖な器具を取り扱う際にまず手を清めるという、儀式的な動作を想起させる表現です。「筆者は7~10節で典礼色の強い論述へと進んでいく。」[8] 確かに、原語には儀式的な意味で穢れを除くという意味があります。もしかしたら、ヤコブはユダヤ教から改宗したクリスチャン達がわかりやすいように、旧約時代の習慣に言及しているのかもしれません。その時代には、特に手を清める儀式が入念に行われていたからです。だからといって、ヤコブが旧約時代のユダヤ教の儀式をそのままに認めているとは考えにくいものです。その証拠に、この部分の後半に、「二心の者たち」という表現が見られます。「彼らは神とこの世とに己を与える者である。」[9] この世の基準と神の教えを同じ平面で考えている人々であり、福祉のマインドがあったユダなどはこの部類に当たるでしょう。「ヤコブの手紙の中で意識されているのは、反熱心党的な論説である。」[10] 新共同訳では「心の定まらない者」となっています。しかし、単に心が不安定なのではなく、信仰そのものの二重性が問題にされていると考えてよいでしょう。7節にあったように、信仰あることを自称しながらも、実は、その信仰が神の権威を無視するような地上的で穢れたものだったとヤコブは言いたいのでしょう。これこそ二心という事ではないでしょうか。
そして、そうした二心の者たちが背景として持っていたのがユダヤ教であるので、ヤコブは敢えてユダヤ教の儀式を暗示しながら外面の清めと心の清めを述べたのだと思います。ヤコブは言います。心は「ハギオス」なくてはいけない。それはつまり、神に属し、神専用に礼拝に用いられる器として準備されなければいけないということです。人間独自の清さを聖書は語りません。それは文化や習慣に左右されるからです。ヤコブが言いたい、清さ、あるいは清めとは、あくまで神との関係において言えること、または救い主との関係において言えることなのです。ヤコブが語りかけている人々を想定すると、この難解な部分にもある程度の解釈の光を当てることが出来るでしょう。
次に、9節では語調が変わります。読者にたいして、ヤコブは、あなたがたは苦しみなさい、悲しみなさい、涙を流しなさいと命じます。それだけでなく、喜びをも憂いに変えなさいとも言います。これはどうしてでしょうか。人々の幸せを願うのが牧会者の立場ではないでしょうか。この突き放したような言葉にはどのような意味が含まれているのでしょうか。「9節では、いろいろな用語で葬儀の日と葬儀のことが描かれる。」[11] つまり、キリストの死に結び付く信仰、罪人の死を自ら十字架で負ったキリストと一体化した信仰に立ちなさいということでしょう。これは悔い改めの勧めでもあるようです。「ただ、これは禁欲主義の勧めや、その擁護でもない。」[12] 地上のものを第一にしていたことへの悲しみなのです。「泣くことは、彼らの改心が真実であることの証拠である。」[13] 「神の御心に適った悲しみは、取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせ、世の悲しみは死をもたらします。」(第二コリント7:10)
10節で、ヤコブが意図していたことが明らかになります。ヤコブは、主の前にへりくだりなさいと命じます。態度として謙虚になることはわかりますが、何故、ヤコブは主の御前にと書いたのでしょうか。それは物理的な前ではなく、神の目から見てとか、神の判断においてという意味です。ですから、自分が自分を肯定する自己欺瞞を、ヤコブは徹底的に排除して、神の下す判断によってタペイノー(卑しくされること)、あるいは最下層の者としてみなされなさいと命じたのです。これは、傲慢な者には受け入れがたき命令です。「謙遜は、現代の多くのキリスト者にとって理解するのにむずかしい徳である。」[14] 「謙遜とは神への絶対的な依存と同義である。」[15] 聖霊の働きなしにはこれを受け入れることが出来ないでしょう。逆に、これをその通りだと思って、謙遜に受け入れるときには、既にその人は神の視点からは、御心に適った人なのです。旧約聖書のダビデ王の記事などを参考にするとこの点がわかります。
それだけではありません。神は神の権威に心を低くして従う者を高めて下さるのです。これは霊的な高みに引き上げられるという意味であり、その主体はやはり神なのです。ですから、わたしたちに必要なのは、神を離れて自力で己が道を清めるのではなく、まさに神の絶大な権限のまえにへりくだってみ言葉に従うこと、自らの低さを自覚することが求められていると考えてよいでしょう。高くするのは人間でなく神です。わたしたちに出来ることは、低い姿勢で悔い改めていくことです。そこに祝福があることは聖書に一貫した教えです。「主は不遜な者を嘲り、へりくだる人に恵みを賜る。」(箴言3:34) また、主イエス・キリストは教えました、「自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国で一番偉いのだ。」(マタイ18:4)イエス様の第一の弟子ペトロは言いました、「神の力強い御手の下で自分を低くしなさい。そうすれば、かの時には高めていただけます。」(第一ペトロ5:6)伝道者として世界中にキリスト教を広めたパウロは書きました、「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じものとなりました。人間の姿で現れ、へりくだって死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。」(フィリピ2:6以下)ヤコブも同じように考えていたのは確かだと思います。ヤコブ書は、この聖書が教える信仰の原点に立ち返るようにという勧めだったのです。
[1] シュナイダー、「公同書簡」、NTD刊行会、1975年、73頁
[2] ベンゲル、「ヤコブ書註解」、長崎書店、1944年、115頁
[3] 山岸登、「ヤコブの手紙、ヨハネの手紙」、エマオ出版、2005年、86頁
[4] P. パーキンス、「ヤコブの手紙」、日本基督教団出版局、1998年、199頁
[5] R. マーティン、「聖書註解48;ヤコブの手紙」、ワード社、1988年、152頁
[6] 蓮見和男、「へブル書・ヤコブ書」、新教出版社、2004年、177頁
[7] D. ムー、「ヤコブの手紙」、いのちのことば社、2009年、173頁
[8] E.フリース「ヤコブの手紙」、教文館、2015年、132頁
[9] 前掲、ベンゲル、「ヤコブ書註解」、116頁
[10] 前掲、R. マーティン、「聖書註解48;ヤコブの手紙」、152頁
[11] 前掲、E.フリース「ヤコブの手紙」、134頁
[12] 前掲、R. マーティン、「聖書註解48;ヤコブの手紙」、154頁
[13] 前掲、P. パーキンス、「ヤコブの手紙」、200頁
[14] 前掲、P. パーキンス、「ヤコブの手紙」、200頁
[15] 前掲、R. マーティン、「聖書註解48;ヤコブの手紙」、155頁