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コロナと人間の孤立の問題を解明するヤコブ(最終回)

ヤコブの手紙5章12節 -20節  文責 中川俊介

12節での話題は前節との連関が薄いように見えます。「一つの独立した伝承の断片が、テキストの中に入る道を見出した。」[1] しかし、何かしらの内的連関があることが接続詞の使用によって明らかです。また、兄弟たちという穏やかな呼びかけは前と同じですが、ここでは誓いを禁止しています。「ヤコブは、誓いをするということが、これまでこの手紙で語ってきた罪より重いものだと言っているのではない。」[2] 天を指して誓っても、地を指して誓ってもいけないし、他の何かを指して誓ってもいけないというのです。これは、「主の名をみだりに唱えてはならない」という、モーセの十戒の中の第二の戒めに対する違反となるからです。そして、言葉上のハイはハイとし、イイエはイイエとしなければいけないと諭します。それは裁きに落ちないためだとします。これはイエス様も教えていたことです。「一切誓いを立ててはならない。天にかけて誓ってはならない。そこは神の玉座である。地にかけて誓ってはならない。そこは神の足台である。エルサレムにかけて誓ってはならない。そこは大王の都である。また、あなたの頭にかけて誓ってはならない。髪の毛一本すら、あなたは白くも黒くもできないからである。あなたがたは、『然り、然り』『否、否』と言いなさい。それ以上のことは、悪い者からでるのである。」(マタイ5:34以下)「ここで要求されているのは、真実なることではなく、単純さである。」[3]

また、福音書の教えにある最後の言葉「悪い者」とは悪人のことではなく、ヘブライ的な考えでは悪魔をさす言葉です。ですから、ここから類推すると、ヤコブが誓いの禁止を述べている背景には、教会に巣くいやすい悪魔の業を止めようとする意図があるのではないでしょうか。「誓いが必要な社会とは、真実が尊重されていない社会だけである。」[4] 誓いの言葉は、当時の社会では一つの風習として行われていたことでしょうが、神への信仰の視点からみると、それは人間の力を神の上に置く悪い行為です。「誓うことは、われとみずからイエスの真の弟子たることを否定するに等しい行為である。」[5] それは、旅商人が、神の御心にまったく無関心で、自分の力を過信してまだ見ぬ将来を計画して満足するのと同じではないでしょうか。「この題材は、神の前で自分をどう思うかという問いと関わる。」[6] わたしたちは実際には明日の事もわからないものです。その、わからないことがわかる(自覚する)ときに、神の前での謙虚さが生まれると思います。それを、ヤコブは読者に求めているのでしょう。

13節では、話題が変わって、ヤコブは苦しんでいる人がいるかと問います。これは、難儀に会っているという意味ですから、当時の迫害で苦しんでいる読者に対して語りかけているのかも知れません。この手紙の冒頭にも同じ指摘がありました。そこで、ヤコブは祈りなさいと勧めます。「祈りは人間から神を隔てる裂け目を認め示すことである。」[7] こうした断絶感がなく、破れを知らない祈りは独語に過ぎないものとなってしまいます。そして次に、喜んでいる人は、詩編を歌いなさいと勧めます。「われわれは自分たちの生活において神が働かれる部分を知ることができるという喜びの時があることを忘れてはならない。」[8] これはそういう困難な状況の中でも無条件の感謝をもって礼拝することを想定していると言えるでしょう。前節では、神を無視した人間的は判断が批判されましたが、ここでは、その逆に良い事も悪いことも、その帰結を神に向けることが教えられています。「喜ぶべきことがあったならば、神に栄光を帰し、神を誉め讃えるべきです。」[9]

具体的なアドバイスは続きます。14節でも同じパターンの質問が続きます。病気にかかっている人はいますか、というのです。そのときの答えは自分で祈りなさいではありません。教会の長老たちを呼びなさいというのです。「確かではないが、この職務がシナゴーグから受け継がれたものであるということは考えられる。」[10] そして、彼らに祈ってもらいなさいと勧めます。一人ではなく複数の長老たちに来てもらうというのは興味深いことです。イエス様も、「また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる」(マタイ18:19)、と教えたのですから、そうした習慣がヤコブの教会にも伝えられていたのでしょう。「キリストが使徒たちに委託し給うたことは、そののち教会において、使徒たちの時代の後でさえも続けられた。」[11] マルチン・ブーバーというユダヤ人学者が書いた「我と汝」という名著がありますが、人間が孤立してしまい、他者をものや数字として扱うことによって神から離れると教えているわけです。イスラエルにいた時に、フーバーの友人であったベン・コーリンにシナゴーグで偶然出会った事があります。持っていた本に署名をお願いしたら、「ユダヤ教の中ではリベラルなわたしだが、さすがに安息日には文字を書かないよ」と笑顔で言われたことがありました。それはともかく、孤立自体が罪の結果であるとも考えられます。コロナによる全世界の隔離は、人類が犯してきた罪の結末であるとも考えられます。逆に、複数連帯であることに神の御意志があるのでしょう。教会の礼拝も司式者と会衆の複数呼応形式になっています。であるとすると、二人の者が愛の思いにおいて一致することは、神の存在に近いともいえるでしょう。また、その病気の治療ですが、祈るだけでなく、病人の上にオリーブ油を塗り、主のみ名によって祈りなさいと命じています。オリーブ油にはビタミンCが豊富に含まれているので、ある面では治療効果もあったことでしょう。「この行為の聖礼典としての理解は、すでに教会の歴史の初期に起こった。」[12] この主の名の使用は、「弟子たちはイエスの名によって、すなわちイエスの委託を受けて、あるいはまたイエスの力を受けて行為する。」[13] ここでわかるように、祈りにおける救い主の名前の使用というのは、その全権を委託され、イエス様が癒しの奇跡をおこなったように、弟子たちもその名において奇跡をおこなう事だったのです。特に重要なのは主の名によって罪の赦しを得させる秘儀でした。病気の癒しも、聖書では、罪の赦しと無関係ではありません。それゆえに、この油を塗る行為、つまり塗油が聖礼典と考えられ、今もカトリック教会や正教会では継承されているのでしょう。この儀式での、罪の赦しへの理解には微妙な差異があるようです。

14節で暗に示されていた課題を、ヤコブは15節で明らかにします。長老たちの祈り(ユーケー)は病み疲れている人を救い、主は彼を起き上がらせるというのです。ここでは、前述の祈りとは別の言葉である祈り(ユーケー)が用いられており、どちらかというと感謝を基本とした祈りの意味になっています。「この祈りは、強く、熱烈な願い、誓願を意味するまれな語によって表される。」[14] 困った状況なのに、主に結ばれ、主による癒しを先取りしている様子が見て取れます。また、もし罪を行ったなら、その罪は赦されると教えます。つまり、長老たちが主から託された祈りには、人々を肉体的にも霊的にも癒す力があるという事です。こうした考えは、どちらかというと知的な宗教になっている現代のキリスト教では忘れてはならないことかも知れません。それに、ヤコブが語る長老たちの信仰的な行為の背景に、苦しむ者に連帯するイエス・キリストの姿があることは確かです。要するに、ヤコブ書はイエス様の働きをいかに継承すべきか、というテーマに沿った書簡でもあると分かるのです。

16節では、一つの結論として、ヤコブは癒されるために、数々の罪過を互いに告白し合いなさいと勧めます。これも告解としてカトリック教会や正教会では継承されている聖礼典です。メソジスト教会ではこの相互の告解がおおきな役割を果たしました。これを見ると、「藁の書」とも思われたヤコブ書が、教会の聖礼典に大きな影響を与えてきたことがわかります。それは罪の問題を扱っているからです。無差別な罪の赦しではなく、罪の告白に基づく罪の赦しと言えます。「赦しはここでは典礼的に規定されており、職務の人たちの権能、教会の権能であると受け止めておかなければならない。」[15] これは旧約聖書からの伝統だと言えます。「わたしは罪をあなたに示し、咎を隠しませんでした。」(詩編32:5) 新約聖書にも、「自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます」(第一ヨハネ1:9)、と書かれています。罪の問題はどうしても、自分で解決しようとして誤ってしまいます。聖書の提起する解決方法は、公の告白です。その伝統をカトリック教会は現代まで引き継いできているのです。そして、ヤコブは、義人の祈りには大きな力があるといいます。おらくこれは、教会の長老たちのことを指しているのでしょう。「この個所は、牧会者の権限と責務について言及している。」[16]

17節でも同じ内容がさらに展開されています。旧約聖書に登場するエリヤですが、ヤコブによれば彼は特別な人間ではなく、わたしたちと同じ弱さを持った人間にすぎません。ところが、彼が雨を降らせないように祈ると三年間雨が降らなかったのです(列王記上17:1以下参照)。つまり、ヤコブは預言者エリヤのような著名な人だけではなく、普通の人間である我々も、義人としての祈りをささげることができ、それは神に聞かれると強調しているのでしょう。

18節も、前節の継続部分です。ただ、関連個所である部分を読みますと、三年後にエリヤが祈ったから雨が降ったのではなく、「行って、アハブの前に姿を現せ。わたしはこの地の面に雨を降らせる」(列王記上18:1)、という主のお告げがあって、その後に彼自身が祈ったわけです。ですから、ヤコブは義人の祈りの力を少し過大評価しているようにもみえます。ただ、外典のシラ書では、ヤコブの言う様なエリヤの祈りの決定的な重要性が描かれていますので、ヤコブだけの独断的見解とも言えないでしょう。これは当時の人々の聖書理解と一致していたと思われます。そして、神の降らせた雨のあとで、干ばつに苦しんだ土地の草木は再び芽を出し緑になりました。それも一つの癒しです。

19節では、真理から迷い出た人のことが語られます。さきほどの、身体的な病ではなく、信仰心が誤ってしまった場合です。「迷い出る仲間のキリスト者を取り戻すために関心をいだくことは、明らかに初代教会に共通していた。」[17] おそらく、ヤコブの読者のなかにはそのような人も多く見られたことでしょう。ここで、誤るというギリシア語はプラネット(惑星)などと語源が同じ言葉であり、宗教的な誤謬に陥って惑うことを意味します。「この手紙の全体的な目的は、迷う兄弟たちを誤った考えから正すことにある。」[18] この誤りは、神への依存を忘れた個人主義をも意味します。「愛をもって彼の上を気づかい、あらゆる努力を払って彼をふたたび正道に立ち返らせることが、われわれに課せられた使命となるのだ。」[19] この場合でも、おそらく義人が真理に立ち返らせる役割を負っているというのでしょう。

20節で、最後に、迷い出た罪人を迷いの道から立ち返らせるならば、その人は、死から彼の魂を救い出し、多くの罪を覆うことになると教えます。「すなわち、司牧者が罪人を助けるならば、彼は自分自身の魂を死から救い出し、おのれの多くの罪を蔽うであろう、との意味に解するのである。」 ヤコブ書の最後は贖罪論でした。「連帯的になることが大切です。」[20] 教会における贖罪で大切なのは、連帯的な長老たちの働きであり、それは叙階として、カトリック教会や正教会では継承されている聖礼典です。それも、イエス・キリストの十字架の贖罪に始まって、弟子たちに引き継がれた贖罪の働きを宣言したものです。最後の罪を覆うというのは、罪をなくすのではなく、義人の祈りによって、ベールで被われるという意味です。これは、新約聖書に一貫している救いの思想であり、罪人を神の憐みがベールのように包むという連帯の象徴です。そうした表現は多く見られます。ですから、ヤコブ書は自己の義に立脚した厳しい道徳書でも新しい律法の書でもなく、神の愛の衣で覆われなさいと言う指南の書であったのです。「目を覚まし、衣を身に着けている人は幸いである。」(黙示録16:15)「主イエス・キリストを身にまといなさい。」(ローマ13:14)「神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づいた正しく清い生活を送るようにしなければなりません。」(エフェソ4:24)ヤコブ書は、教会の働きにおいて、その聖礼典の理解においても大変に重要な書簡でした。それは神の愛の働きにほかなりません。「ヤコブの手紙も、キリスト者の信仰が、断固、教理解説や人生解説などではなく、生命であり愛なのだと、はっきりさせるのを見たいと主張したのである。」[21] 神の愛とは、神の連帯です。「愛はすべての罪を覆う。」(箴言10:12)この書によってイエス・キリストの愛の働きが教会生活において継承されたのです。この書が、正典に残されたことは感謝でした。 (最後にここまで読んでくださった方々に感謝します。ヤコブ書の印象が少しでも変わったならば、この書を正典に加えた過去の聖徒たちも天で喜ぶことでしょう。)

[1] P. パーキンス、「ヤコブの手紙」、日本基督教団出版局、1998年、211頁

[2] D. ムー、「ヤコブの手紙」、いのちのことば社、2009年、203頁

[3] ベンゲル、「ヤコブ書註解」、長崎書店、1944年、135頁

[4] R. マーティン、「聖書註解48;ヤコブの手紙」、ワード社、1988年、203頁

[5] シュナイダー、「公同書簡」、NTD刊行会、1975年、92頁

[6] E.フリース「ヤコブの手紙」、教文館、2015年、158頁

[7] 前掲、E.フリース「ヤコブの手紙」、162頁

[8] 前掲、D. ムー、「ヤコブの手紙」、206頁

[9] 山岸登、「ヤコブの手紙、ヨハネの手紙」、エマオ出版、2005年、116頁

[10] 前掲、D. ムー、「ヤコブの手紙」、207頁

[11] 前掲、ベンゲル、「ヤコブ書註解」、136頁

[12] 前掲、D. ムー、「ヤコブの手紙」、209頁

[13] 聖書大辞典、教文館、1989年、884頁

[14] 前掲、D. ムー、「ヤコブの手紙」、212頁

[15] 前掲、E.フリース「ヤコブの手紙」、165頁

[16] R. マーティン、「聖書註解48;ヤコブの手紙」、ワード社、1988年、211頁

[17] 前掲、P. パーキンス、「ヤコブの手紙」、219頁

[18] 前掲、R. マーティン、「聖書註解48;ヤコブの手紙」、218頁

[19] 前掲、シュナイダー、「公同書簡」、99頁

[20] 蓮見和男、「へブル書・ヤコブ書」、新教出版社、2004年、190頁

[21] 前掲、E.フリース「ヤコブの手紙」、173頁

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