阪神大震災の日の朝、わたしはルーテル系の老人ホームの朝の礼拝に車で向かっていました。到着すると、いつもは静かな老人ホームが異様な雰囲気につつまれていました。まるで、戦争か何かが始まったかのようでした。その原因が、阪神大震災でした。関東大震災は想定内だとしても、関西でこのような大規模な地震が起きるとは夢にも思いませんでした。テレビの映像を見ると、それはまさに戦場のようでした。破壊し尽くされていたのです。傾いたビルや、炎を上げる建物や倒壊した高速道路のようすはまさに、地獄絵図でした。そこで、愛する祖母を失った男の子が「かみさまのばか」という題の作文を書きました。その男の子も、26年たった今では、立派な社会人です。彼は、今も祖母のことを鮮明に覚えているそうです。
それにしても、地震の被害にあって、「かみさまのばか」と言いたい気持ちは十分わかります。日本は自然災害が多いですから、洪水で家族や家屋を失っても、「かみさまのばか」と言いたいでしょう。火山の噴火で家族を失った人たちも、「かみさまのばか」と言いたいでしょう。津波で家族や生活基盤そのものを喪失した人々も、「かみさまのばか」と言いたいでしょう。自然災害の派生結果である原発事故で故郷を失った人々も、「かみさまのばか」と言いたいでしょう。コロナの場合にも、「かみさまのばか」と言いたいでしょう。これは、神学的に難しい問題です。イエス様が十字架にかけられたときも、弟子たちの立場からすると、「かみさまのばか」と言いたかったかもしれません。何が難しいかというと、聖書には神は愛であるとかいてあるのに何で悲しいことを起こしてしまうのかが理解できないからです。イエス様も弟子たちに「雀の一羽さえ神の許しがなければ地に落ちない」(マタイ福音者10章29節以下)と教えました。であるとすると、イエス様の十字架も神の許しのもとのできごとだったわけです。聖書的に見れば、自然災害も神の許しのもとのできごとです。神が全知全能であるという事からするとそうです。であるとすると、神の愛とは、神の保護や神のお守りとは違った概念だとわかります。イエス様もそれを知っていました。だから、「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい」(マタイ福音書10章28節)と教えたのではないでしょうか。この世で災害や、災難が生じるたびに神様は、「かみさまのばか」という非難を受けています。一番悲しんでいるのは、創造主である神様であることは、愛する御子イエス・キリストの死を許したことにも表れています。お守りの神学ではなく、犠牲の神学です。神がまず初めにわが子イエス・キリストの犠牲を許したわけです。これは、創世記の、アブラハムとその子イサクの物語に予兆されています。犠牲は苦しいことです。
しかし、一歩さがって考えてみましょう、人類の歴史の中で、犠牲なしに問題が解決したことがあったでしょうか。例えば、現在では、他国を理由なしに侵略することは禁じられています。でも、昔からそうでしょうか。多くの戦乱と、流血の犠牲の結果、人類は平和という原理を樹立できたのです。地震も、津波も、噴火も自然災害です。やがて地球も宇宙からの大隕石の激突で一つの時代を終えるでしょう。これを神様のせいにはできません。自然の摂理です。神が宇宙万物に法則を与えたのは摂理です。仏教が盛んだったころには、誰もが「諸行無常」を信じていて、自然の摂理に抗う者はすくなかったと思います。国定忠治の言葉、「赤城の山も今宵限り、これも定めだ」の、「定め」というのが、摂理の認識です。我が家の近くの家庭菜園の隣にあった広い麦畑が、収穫前に全部枯れてしまったことがあります。わたしが農家の人に「たいへんですね」と声をかけたら、「おてんとうさまのすることだから、しかたがないよ」という返事が返ってきました。自然の摂理を知っているなと思いました。キリスト教も摂理を認めています。それは、アーメン(御心の通りになりますように)という一言にあらわされています。嬉しい時にも、アーメン、悲しく辛い時にもアーメンです。神様は、どんなに「かみさまのばか」と言われても、その人に必ず立ち直る勇気と希望を与えて下さるのです。神は愛なのです。