印西インターネット教会

コロナ死に直面した時に読む説教

「運命の回復」      ルカ10:25-37

(運命判断の実例)

賑やかな繁華街にいきますと、路地裏で小さなテーブルを置いて運勢占いをやっています。皆さんが運勢を占ってもらって聞く言葉はたいてい当っています。例えば、「自分が変われば、周囲との関係性も変わっていきます。」「前からやってみたいと思っていたこと、続かなくて挫折してしまったことなど、気持ちを新たにしたチャレンジをするのに最適な時期です」誰にでも言えることを言っている場合が多いのです。ただ、そこで、黒い服を着て顔にベールをかけた人が、「あなたは必ず死にます」といったら不吉ですね。ただそれはハッキリした事実です。聖書には、「アダムにより罪が世に入り、死はすべての人に及んだのです」(ローマ5:12)とあります。これが運命です。どんなものを持っても意味がありません。また、何を失っても意味がありません。やがて消えてしまうからです。これが運命です。にもかかわらず、人生の出来事で大騒ぎしたり、慌てたり、失望しやすいのは、自分が「必ず死にます」という自覚ができていないからでしょう。頭では分かっていても実際にはまったく分かっていない人のように行動してしまうのです。

(運命の回復)

その変えることのできない運命に対して、旧約聖書は、「あなたの神はあなたの運命を回復する」(申命記30:3)そして「命を得ることができる」(30:6)と告げています。わたしたちは運命の回復を信じていきたいものです。ただ、ここで本文を良く見ていきますと、運命を回復するには「心を尽くし、魂を尽くして」み心を実践する、という条件がついています。これが厳しいものです。

(運命回復への問題点)

そこで新約聖書をみましょう。イエス様の前に現れた、律法の専門家は知っていました。死の運命を回復して命を得るには、「心を尽くし、魂を尽くして」神を愛することであると。申命記6:5でシェマー(聞きなさい)という言葉から始まる祈りです。ユダヤ人なら毎朝繰り返している祈りの言葉です。しかし、律法学者はここにレビ記19:18を加えたのです。「隣人を自分のように愛しなさい」の項目です。敬虔なユダヤ人たちにとっては、神と隣人が愛されるところにおいて律法は満たされると考えられており、そのことを誰もが知っていたのです。ここの問題点は頭では「知っている」ということです。だからイエスも「正しい答えだ」と同意しています。正しいけれども問題なのです。だからイエス様は、続けて「それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」と語りました。「知っている」ということにたいして「行う事」を追加したのです。本当に知っていたら、本当に行うでしょう。わたしたちは死ぬと知っているように思っています。しかし、それを知るのは聖霊によるのです。死の自覚さえ本当にはできていないという問題点があるのです。そして、何を飲もうか何を着ようかで悩んでしまう。仏教で言えば、餓鬼道です。これは「永遠に満腹することない欲求不満の象徴」です。餓鬼を絵にすると、怒りの為に髪は逆立ち、目は血走り、爪は長くのびて掴んだら離さない執念が現れています。

(問題解決の諭し)

ではどうしたらよいのでしょうか。そこでイエス様は、譬えを語りました。譬えには解決の教えが含まれています。ここに3人の人物が登場します。祭司もレビ人も神殿で神に仕えるエリートのユダヤ人です。サマリア人は、ユダヤ人が軽蔑していたユダヤ教の異端でした。ほとんど死にかけていた旅人を助けたのは低い身分のサマリア人でした。33節の憐れに思いは独特な表現で、「腸を痛め」、の意味です。この三人の例をあげて、イエス様は「あなたはどう思うか」と聞いてわたしたちが自分を傷ついて倒れている人の立場に置くように言います。助ける立場ではありません。無力なけが人の立場です。そこであなたの隣人は誰かと考えさせるのです。それはわたしたち自身を根本的に変える、問題解決につながります。イエス様は、運命回復の為に、わたしたちを愛を施す側ではなく、傷つき倒れ、愛を受けることを必要とする側におかれたのです。それは、あなたが奉仕したり、介抱したり、気をくばったりするのでなく、あなたの隣人を知るため。あなたの隣人を愛するためです。

(弱い立場)

運命の回復は、自分を倒れたものの場所、最も弱い者に置くことから始まります。無力な立場です。「1リットルの涙」という本がありました。副題は「難病と闘い続ける少女、亜也の日記」でした。お母さんが、14歳から20歳までの亜也さんの気持ちを人々に伝えたかったのです。その中でこう書いてあります。「人はそれぞれ言いしれぬ悩みがある。過去を思い出すと涙がでてきて困る。現実があまりにも残酷できびしすぎて夢さえ与えてくれない。将来を想像するとまた別の涙が流れる。それを誰が受け止めてくれるのか。」それを誰が受け止めてくれるのか。それを誰が受け止めてくれるのか。その問いかけは、イエス様の譬えから考えると、わたしたち自身の問いでなければならない。苦しみの人は、亜也さんであり、死の運命を負う私たち自身です。聖書は「受け止めてくれる人」はサマリア人だとします。人ごとなのに、自分のはらわたが千切れるように痛みを覚え、親身になって世話をする人です。そこにこそ、わたしたちは救い主、イエス・キリストの姿が投影されているのです。イエス・キリストこそ真の隣人です。まず、人生ではこの隣人を発見しなければならない。わたしたちの死の問題の解決のために十字架にかかってくださった隣人です。

(今後の歩み)

ただ、知ることと、本当に運命が変えられて、命に生きるのとは別です。人間にはそれぞれ、道が定められています。神との関係の道です。色々な歴史、経験を経て、最後に十字架の信仰に行きつくのです。信仰は、イエス様がおっしゃったように「実行しなさい、同じようにしなさい」という行いによって本物か、見せかけなのかが分かるのです。普通はわたしたちの信仰は、知っているだけの律法の専門家と同じです。イエス・キリストの十字架の信仰に到達しなくては、正しく理解し、正しく実行することができません。今後の歩みには忍耐が必要です。

(結論)

私たちは知っているというより、知らないという弱い立場に、実行しているというより、なにもできていない立場に、信仰があるというより、信仰がない立場に自分をおきたい。実は、その弱い立場に倒れこむことによって、キリストの声を聞き、キリストの心からの介抱を受けることができるのです。死のどん底は、イエス様との出会いのときです。隣人との出会いのときです。運命の回復のときです。

徹底した低い立場でいいのです。強がる必要はゼロです。救い主を呼びましょう。手軽な運勢判断や、一時的な慰めなどは無用です。十字架によって、つまり最も弱い立場によって、死の中から命が溢れる筈です。わたしたちには、さらに試練がくるかもしれません。しかし、その日が来たら、この喜びをつたえましょう。その時に、「わたしが、今日あなたに命じるこの戒めは難しすぎるものでもなく、遠く及ばないものでもない。・・・・御言葉はあなたのごく近くにあり、あなたの口と心にあるのだから、それを行うことができる」(申命記30:11、14)という聖なる預言が実現します。実際に弟子たちにおいて実現しました。第一ヨハネ3:14「わたしたちは自分が死から命へと移ったことを知っています。兄弟を愛しているからです。」死から命への移行(横超)とは、神の絶対愛の実現にあるのです。それには、自分の弱さから逃げず、神の絶対愛を信じることです。

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