印西インターネット教会

コロナで生活が非効率化した時に読む説教

「軍馬を絶つ」       ルカ19:28-48

今日は枝の主日、棕櫚主日とも言われる特別な日です。人々が棕櫚の葉のようなものや服を道に敷いてイエス様を迎えたからです。服を敷くのは、王の即位のしるしでした。(列王下9:13)聖書を見ると、イエス様の一行がエルサレムに上って行き、エルサレムの東側にあるオリーブ山のところまで来たとあります。そこでロバを借りたのです。馬というのは戦闘用であり高貴な地位のしるしでしたが、ロバは平和のしるし、低い謙虚さのしるしでした。また、戦争というのは、実は能率的な人間の領土の所有行為でもありました。例えば兵隊が軍服を着るのは、生産活動に大切な農民を兵士と間違えて殺さないように区別するためでした。ローマの軍隊は最強だったそうですが、その軍隊で支配するには一刻も早く紛争地に軍隊を送る必要がありました。そのために道路の整備、そして馬の使用は大切でした。逆に、ロバにはそのような効率性はありません。農民が生活に必要な物資を載せてゆっくり歩くくらいのものです。早くないのです。馬に比べると格段に効率の悪いのがロバだったと思います。ちなみに馬とロバは遺伝子が97パーセント同じだそうです。ただ、ロバは小型で馬ほど早くもありません。日本は世界でも珍しくロバが定着しなかった国で、今でも数百頭しかいないようです。何故なのかと考えてみると、それは能率性を第一に考える日本人の考え方に合わないからでしょう。けれども聖書の世界は違います。長い間、砂漠をさ迷って無駄とも言える時間を過ごしたユダヤ民族にはロバが大切でした。そして、ゼカリア書9章9節には救い主である王が「高ぶることなく、ロバに乗ってくる」、という預言があります。ロバという存在、非効率的存在が、この高ぶらないことの象徴です。今日の使徒書の日課であるフィリピ書2:7以下にも「キリストは自分を無にして、へりくだり、十字架の死にいたるまで従順でした」と書いてあります。キリストは無だった。このことを知りつつ、イエス様は子ロバを引いてきなさいと命じました。親のロバでさえ、馬に比べたら非効率的で小さなものです。それなのに何故、エルサレムに向かう際に、さらに小さなロバの子を求めたのでしょうか。

弟子たちは、イエス様に命じられたように、村でロバを借りてきて、イエス様を載せました。馬やラクダは背が高いです。ですから、馬でしたら、エルサレムに入るにはさっそうとした雄姿だったと思いますが、小さな子ロバに乗ったイエス様の姿はきっと滑稽で陳腐なドンキホーテのようなものだったでしょう。実にドンキホーテとイエス・キリストの類似性、人々の嘲笑の対象、を研究した学者もいるくらいです。作者のセルバンテスは人には理解されない者の非合理性を理解していたのでしょう。

さて、ロバを調達したオリーブ山からエルサレムの神殿までの道を下る時にイエス様は大群衆に歓迎されました。人々は詩編118:26の「祝福あれ主のみ名によって来る人に」という言葉を叫びました。これは、特にイエス様のために歌ったのではなく、エルサレムに過越祭りで上る巡礼者が旅の最後に歌う歌でした。ですが、あたかもイエス様を賛美しているかのように聞こえました。同じ詩編118:22には「家づくりの捨てた石が隅の親石になった」と書かれています。これは人の目には考えられない、理解できない奇跡が起こったという意味です。隅の親石とは建築上最後の重要な石です。無駄な石が重要な石になった。また27節を見ますと「祭りのいけにえを綱で引いて行け」とあります。ここを見ると、ロバに乗せられたイエス様がまさに、贖罪の為の血を流す「犠牲の供え物」としての役割を担ったことがわかります。また、詩編118は、旧約聖書の学者でもあったルター最も愛した詩編だったそうです。何故なら、イエス様が、人間には理解できない捨てられた石であって、罪の赦しの贖いの犠牲となり、いわば「神はわが櫓」となったからでしょう。

オリーブ山からの坂を下っていくと眼下にエルサレムが見えます。そこには巨大な神殿があって、ユダヤ人は自分たちが神を礼拝していると思っていました。ても、彼らは本当の神を知らなかったのです。彼らにとっては、神は守護神であり、繁栄の神であり、力の神であり、信じる者を最も能率よく恵まれる神でした。それは、残念ながら、もしかしたらわたしたちの姿です。わたしたちの罪です。わたしたちの願いをかなえる道具にすぎない神でした。それは自分の絶対化、願望にすぎません。しかし、コロナはわたしたちの社会の能率性を破壊しました。そして、わたしたちが弱い存在であることを暴露しました。

その反対は低い姿です。非合理的の世界です。低さの極限は十字架でした。実はそれが愛であり、真実の神でした。愛は無駄ばかりです。ヨハネも、ヨハネ第一の手紙4:8で「神は愛です」と述べています。そこをよく読むとわかります。愛とは実に非効率的なものです。「神は独り子イエス・キリストを世に遣わされた」捨てられるべき、家づくりの捨てた石として。ロバに乗せられた贖罪の犠牲として。あたかも焼き尽くす捧げ物として、ロバに乗せられ、シオンの山に向かったイサクのように遣わされた。神の子という高い方が、世に遣わされ、最も低い十字架に架けられた、それは愛の為です。そのことをヨハネはヨハネ第一の手紙4:10で「罪を償いいけにえ」としてくださったことに、愛があると述べています。愛があってこのような犠牲があったのです。神は今もわたしたちを愛しておられる。愛の無駄を惜しまない。この愛はわたしたちが正しいから愛するという合理的なものではありません。自分の罪ではないのに、死ぬというのはまさに愛の犠牲です。御子イエス・キリストの十字架こそ愛です。イエス様は効率的に人類を救うのではなく最も非効率的にロバを用い、戦いの手段であった軍馬を認めず、愛と平和の道をおかれたのです。軍馬の拒否は、戦いの拒否、怒りの拒否です。

エルサレムを見たときイエス様は、その将来の悲劇を覚え泪を流しました。戦いを求める人々は神殿があっても平和の道を知らなかったからです。その後、イエス様は神殿に入り、その中の商売に反対しました。祈りのかわりに利益の奪い合い、収益という効率化が宗教の中にあったからです。逆に、神の愛は非効率的なものです。得るよりは捨てる事、犠牲です。イエスさまの行ったことは、とても過激な行動でした。この過激さによって、指導者たちはイエス様の排除計画を相談しました。彼らの心を支配していたのは愛でなく憎しみと怒り、罪でした。怒る人は最も合理的な人であり、最も神から遠い人でもあります。つまり愛から遠い人です。

イエス様は最も非効率的な方法で平和を実現しました。それは十字架の謝罪でした。それは人類が当然支払うべき罰を自分の命を持って支払ったということです。そこに裁きと怒りの終わりがありました。平和が訪れたのです。実に、キリストは平和そのものです。イエス様は、低い姿を受け入れ、高ぶった誇りや人間の利害を捨てたのです。高貴な王でなく卑しい王様だったのです。だから馬に乗らずにロバに乗ったのです。最初に言いましたが、馬は戦闘用、ロバは平和のしるしでした。イエス様を救い主と信じる者には必ずこの、人間的に見たら不条理な平和、つまり神の平和が来ます。その意味は、自分が無になることです。その無の点が十字架です。

わたしたちが平和に生きるとき、それはロバに乗る人生でしょう。軍馬という自己主張はいりません。ロバです。早くない人生、かっこよくない人生、力がない人生。泣きながらの人生、犠牲の人生でしょう。しかし、それは愛されている人生です。神さまの最大の無駄、不条理とも言える十字架の犠牲、その愛を胸いっぱいに受ける人生です。祈りましょう。コロナ禍にある、この非効率的な毎日の中にも、十字架の愛を感じることができるように。何故なら、愛とは無駄であり、非効率であり、犠牲だからです。

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