印西インターネット教会

コロナに窮せず聖霊降臨日を祝う説教

「バラの誕生日」   ヨハネ15:26-16:4a

今度の日曜日は聖霊降臨日です。それでは、聖霊の意味について学んでみましょう。

旧約聖書のエゼキエル書37:14には「神が霊を吹き込むと、お前たちは生きる」と書いてあります。その少し前の36:25には「神が清い水を振りかけると、お前たちは清められる」とも書いてあります。八王子ルーテル教会では教会の庭にあったバラを礼拝堂でまいてこの清めのしるしにしていました。神の清い水とは、水の洗礼と霊の洗礼の両方を表していると思われます。

実は洗礼にはこの二つがあります。霊の洗礼については、使徒言行録8:15以下を見ますと、ペトロとヨハネがサマリア地方に伝道に行った際に、彼らは人々が聖霊を受けるように祈っていました。人々は主の名によって水の洗礼を受けただけで聖霊の洗礼を受けていなかったです。使徒言行録10:44以下を見ますと逆の例もでています。聖霊が与えられた異邦人が、その後で水の洗礼を受けたのです。つまり、水の洗礼も聖霊の洗礼も必要であるということです。日本では、洗礼を受けてクリスチャンになるだけで、大変な人生の決断です。しかし、キリスト教徒として、人生の様々な誘惑に勝利していくことは難しいものです。信仰を捨てる者も少なくありません。その原因は何だと思いますか。聖霊の洗礼です。

わたしたちは水の洗礼を受けますが、同時に、霊の洗礼も必要なのです。自分の意志ではなく、霊的な働きがわたしたちを守るのです。そういうわけで、聖霊降臨日で祝うのは、弟子たちも聖霊による洗礼を授かり、彼らが新しく誕生し、それまで弱かった人々が、多くの試練に対して、神の無敵の力を発揮できるようになったからです。コロナ禍にあるわたしたちも、この神の守護を必要としています。

水の洗礼も、霊の洗礼も新生であり、新しく生まれることです。特に霊の洗礼は、新しく教会の体の一部分、つまりイエス・キリストの体ぼ一部分として新しく生まれることです。イエス様ば、どんな試練も恐れなかったように、イエス様に結ばれることによって、わたしたちもその性質を受け継ぎます。その強さは、歴代のキリスト教徒の働きの中に示されています。長崎の浦上天主堂でのカトリックとの宗教改革記念500年合同礼拝に参加した時に、過去に何度もあった、教会に対する過酷な迫害の実話を聞くことができました。ルーテル教会では、聖人という用語は用いませんが、その話を聞いたら、彼らはまさに神の加護を受けた聖人だったと思わずにいられませんでした。やはり人間は信仰と聖霊によって生まれかわるのです。

洗礼こそ人を生かし強くするものです。洗礼を受けていない人はぜひ洗礼を求めて欲しいと思います。その人が本当の意味で生かされるからです。ヤコブの手紙2:26には「魂のない肉体は死んだもの」とありますが、ギリシア語原典には「霊のない肉体は死んだもの」となっています。霊がないと死んでいるのです。ですから、聖書は一貫して、霊に満たされることによって生き返るということを教えているものと考えられます。ガラテヤ5:25に「わたしたちは、霊の導きに従っていきているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう」とありますが、これも原典をみると「もし、わたしたちが、霊の中に生きているなら、同時に霊の中に歩みましょう」とあります。つまり。命は霊の中に存在するということです。命を物体の自己再生現象にだけ限定するのは近代科学主義の誤りです。聖霊降臨の際に、弟子たちは外国の言葉で話せるようになったのですが、それは一部であって、深いところでは、それまでの死の体に別れを告げ、霊に生きることになった大切な出来事です。それは、やはり、イエス様が昇天され、「神の右の座につかれた」からです。わたしたちの功績ではありません。イエス様の十字架と復活、昇天という救いの働きの一環として完成したのです。これを考えても何の効果もありません。聖書は信じることが大切だと教えています。これを信じることで死んでいた命が、霊に満たされ生きるのです。

福音書の日課を見ましょう。ヨハネによる福音書15章26節以下ですが、この部分は十字架に懸る前のイエス様の決別説教とも考えられています。もう受苦日は終わりましたし、イースターも終わりましたが、前に戻ると、イエス様は、十字架にかけられる前に、弟子たちを励まし強めるために、この別れの説教をしています。

26節には、イエス様が神のもとから聖霊を送ろうとしていると書いてあります。「神の右の座に」ついたら、聖霊を送って、あなたがたを生き返らせるよ、つまり、復活させるよという意味です。聖霊に付与は予告されていたのです。ですから、聖霊降臨とはイエス様の復活に続く、弟子たちの魂の復活だとりかいしてもいいでしょう。それはイエス様の復活の体に結び痛いて一体となることです。「キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。(中略)あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対していきているのだと考えなさい。」(ローマ6::4以下参照)この点も、パウロは理解していました。聖霊を受ける時に、わたしたちは復活したイエス様に結ばれていてもう孤独ではないのです。ですから聖霊降臨は個人主義が終わり、キリストに結ばれるという新人生が始まることです。

パウロは生涯最後の手紙である獄中書簡でこう書いています。「あなたがたはキリストにおいて洗礼を受け、キリストと共に復活させられてのです。(中略)さて、あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。」(コロサイ2:11以下、3:1以下)やはり、使徒信条にもあるように、イエス様が昇天され、神の右に即位されたことが大きいことだとパウロも言っています。だからこそ救いが確定しているのです。水の洗礼によって十字架の死を受け、霊の洗礼によって復活と結びつき、新しく聖霊によって誕生するのです。これは清めにほかなりません。汚れがなくなること以上に、罪あるものが罪なきキリストの一部分にしていただけるという恵みです。相応しくないものが、聖なる者の体の一部に加えていただけるのです。これは、エフェソ1:13にも「約束された聖霊」なのだとあります。つまり、イエス様は、昇天するまえにも、「あなた方は間もなく聖霊によって洗礼を授けられる」と約束しています。

16:1を見ますと、この聖霊の約束は、困惑していた弟子たちが挫折しないためだとあります。つまり迫害と困難が起こるからです。このことを知っていないと、そうした困難がおこった時に、迷ったり疑ったりしてしまうでしょう。しかし、あらかじめ知っていることによって、つまずかないのです。聖霊の授与は、迷信の一つであるお守りのように、わたしたちを特別扱いして困難から保護するものではありません。聖霊を受けていても、コロナにかかって死ぬこともあるのです。ですから、イエス様は先のことを予測して、弟子たちに試練は必ず来ると知らせたのです。この意味で聖霊は、イエス様の言葉を思い起こさせる助け主なのです。これを、もし知らなかったら、わたしたちの心は折れてしまうでしょう。救いは、わたしたちの強さの結果ではなくイエス様の助けの中にあります。どんな困難の中にも、いや困難だからこそ救いがあるのです。

最初に言いましたが、エゼキエル書37:14に「神が霊を吹き込むと、お前たちは生きる」と書いてありました。また、罪の影響を受けたわたしたちは、霊のない肉体となっており、既に死んだ存在なのです。パウロも「自分はみじめな人間だ。この死に定められた体から誰が救ってくれるだろうか」(ローマ24)と嘆いています。しかし、そのすぐ後で、「命をもたらす霊の法則が人を開放する」と宣言しています。これです!

聖霊の約束です。それが、弟子たちに起こりました。そして弟子の弟子たちに起こりました。ルターにも起こりました。ルターはガラテヤ書3:2の「あなた方が霊を受けたのは律法を行った(良い行い)からではなく、福音を聞いて信じたからだ」というパウロの言葉を尊重します。そして、「信仰こそが、行いを価値あるものとならしめる」と教えています。それで十分です。

ですから、ルターは人生を旅人として生きなさいと命じています。それが「上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます」ということです。この世のものに束縛されてはいけないのです。霊は人を自由にします。外国では、事業に成功したクリスチャンが全財産を寄付することがよくあります。これでなくては、資本主義は機能せず、欲望主義、成金主義になってしまいます。つまり自分の生活を支えるものがあれば十分とし、残りの部分で隣人を助けるべきであると教えています。この世のお金持ちが、資本主義の根本原理に立って、周囲の人々を助けたらどんなに素晴らしい事でしょう。

さて、それまでは迫害におびえて隠れていた弟子たちは、聖霊降臨によって、死者の体から永遠の命の聖者の体に生まれ変わりました。罪の完全な赦しを体験しました。実際に聖徒、聖人、セイントとなったのです。聖霊降臨というのは、現代に生きるわたしたちも、セイントとして生まれ変わらせていただく恵みの機会です。これを忘れないようにしましょう。弟子たちは、勇気を持ち、忍耐力があり、愛ある人々となりました。教会は2千年間この恵みを告げ、この恵みで新生する者を生み出してきました。印西インターネット教会もこの神の働きを継承しています。聖霊体験ができた方は、メールで知らせてください。

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