印西インターネット教会

周囲から冷遇された時に読みたい説教

「受け入れと拒絶」    マタイ10:34-42

イエス様は愛の人でした。人々の苦しみを解決し、弱った人を助けました。多くの人々はイエス様を歓迎しました。しかし、愛のために争いがうまれたこともありました。不思議です。何故かと言うと、イエス様の言葉と行動は、それまでの社会秩序に安住していた人々の反感をうみだしたからです。例えば、神さまはすべての階級の人を等しく愛してくださるよという教えは、現代の平等意識からは当然ですが、昔の社会では大変な反発を生み出したものです。イエス様の時代に、人々は自分と違った人々とは交わりませんでした。人々は民族の違い、職業のちがい、宗教の違い、身分の違いなどによって分かれて生活していたのです。交流がないので秩序が維持されていました。ちなみに沖縄の基地の割合は沖縄本土の土地の18パーセントだそうです。こうした基地は有刺鉄線を張ったフェンスで囲まれています。分離して秩序が維持されています。現在のイスラエルでも、パレスチナ住民からのテロを防ぐために、高さ8メートル、長さ700キロの分離壁を作っています。アメリカのトランプ元大統領は、このような分離壁をメキシコとの間に作ると言いました。その長さは3140キロです。これはなかなか難しいようです。ただ、外の壁ができる前に、人間の心の中に罪が作り出す壁があることを忘れてはいけないと思います。それによって、現在でもクリスチャンは社会から排除され牢屋に入れられています。

分離壁の目的は自分たちの経済利益の確保と安全確保です。イエス様の時代でも同じでした。そのような状況で、「人々の前で自分をわたしの仲間であるという者はわたしの仲間である」とイエス様は教えたのです。ところが、一般社会の価値観が違いますから、神との交わりを大切にする人と、そうでない人が分離するようになってしまうのです。神に従う人は、「神は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」(マタイ5:45)ように、人を差別しません。しかし、神を知らない人は、自分の価値観によって、価値観が違う人を拒絶したりしているのです。学校でそれが起これば「いじめ」です。当時の人々は宗教熱心でしたが、彼らの価値観は律法であり、聖書に登場するファリサイ派というのは分離派と言う意味です。ですから、イエス様は、あなたたちは外側をきれいにするが、内側は悪意に満ちていると言いました。

36節の自分の家族の者が敵となると書いてあります。ある面では恐ろしい言葉です。これは、先週の日課であった10章21節にも出ていますし、繰り返され、その重要性が強調されています。普通なら親と子、兄弟同士が仲良くしなさいというのが宗教の教えでしょう。ところがここで、イエス様は、親子や兄弟という、人間にとって最も近い人間関係が破壊されると預言したのです。ミカ書7:6に「人の敵はその家の者だ」と預言されていたことです。シェイクスピアの「ジュリアス・シーザー」に出て来る「ブルータス、お前もか」にあるように側近が暗殺に加わったのです。利害によって、罪が形成する分離壁ができて、人間関係が破壊されてしまうのです。その点をイエス様は鋭く見抜いていました。

人間の古い人間関係、これは基本的に、平和ですが、何かが起こると、高さ8メートル、長さ700キロ以上の分離壁をわたしたちの心の中に作ってしまいます。まさに、受け入れではなく拒絶の姿勢です。だからイエス様は、「新しい酒は新しい革袋にいれなさい」と教えたのです。分離する気持ちは誰にでもありますが、神に従うことは、主の祈りにあるように、「わたしたちに罪を犯す者をわたしたちが赦すように、わたしたちの罪をもお赦しください」というのがクリスチャンの態度です。反対に、イエス様の周囲の人たちは考えました。自分は罪人と呼ばれる人々とは一切交際しない、だから神は自分を高く評価してくれるに違いない。

しかし、このような差別の態度を持たないイエス様の言葉と行動は、それまでの差別的社会秩序の中で安定していた人々に不安と反感をうみだしました。エレミヤ書の日課の少し後ろの方にある、28:15にエレミヤの真意が告げられています。偽りの預言者ハナンヤに対して、「お前はこの民を安心させようとしているがそれは偽りだ」と言っています。それは、偽預言者ハナンヤが神の言葉を取り次がず、人々が喜びそうなメッセージだけを語ったからです。同じように、自分に都合の良い事だけを聞き入れ、そのほかの教えを拒否した人たちが、まさに、イエス様を十字架にかけたのです。それは、自分たちの利益、自分たちの安全を第一にする彼らの罪が原因でした。これは、現代のわたしたちにも起こりうる排外主義であり、ヘイトスピーチの原因でもあります。以前の都議選で、自民党が大敗しましたが、選挙応援演説で、安倍元首相に反対する人々に、安倍首相が「こんな人たちに皆さん、わたしたちは負けるわけにはいかない」言ったのも、排外主義であり、分離壁のようなものではないでしょうか。多くの人が、有権者を敵と味方に分断した安倍首相の乱暴な物言いに違和感を覚えたようです。しかし、それは、今でもわたしたちの心の深い所にも隠れている傾向だと言っても間違いないでしょう。イエス様の批判は、わたしたち自身が持つ分離壁的な考え方への批判でした。そして「古い人間関係の崩壊」、というのは、必ずしもマイナスだけでなく、主イエス・キリストとの新しい人間関係に入ることです。新しい酒は新しい革袋のみに保たれるのです。古い革袋は破れます。神の愛と神の赦しを保てないのです。

律法主義、ファリサイ派(分離主義)、によって、教会からも捨てられ殺されたのは、まさにイエス様の姿でした。しかし、捨てられた石が隅の頭石になったのです(第一ペトロ2:7、マタイ21:42、イザヤ28:16、詩編118:22)。この石は、「つまずきの石、妨げの岩」なのです。しかし、イエス様の価値観、分離壁を作らない価値観を信じる人々によって新しい愛の教会が形成されました。教会員は差別され、迫害され、住む場所さえ失いましたが、拒絶されても、拒絶されても、相手を受け入れる姿勢を貫きました。それは、人々が捨てた人、病人、罪人、犯罪者にもイエス様が愛の心で接したのと同じです。あなたはあなたでよい。貴方は神にあなた自身として愛されている。人々があなたを拒絶しても、神はあなたを100パーセント受け入れている。だから安心しなさいとイエス様は教えました。この教えを信じ、この教えに従いましょう。

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