「芽をだせ葉をだせ実を結べ」 マタイ13:1-9
成長という考えはイエス様のたとえ話によく出てきます。イザヤ書55章の日課を見ましても成長の考え方が出ています、つまり、イエス様は勝手に成長を強調したのではなく、きちんと聖書に立って教えていたことが分かります。わたしたちも、勿論自分自身の考え方を持っていても当然ですが、聖書が教えている成長の考え方を身につけることが大切だと思います。イザヤ書55:9では、「神の思いは人間の思いを越えている」と書いてあります。つまり、こういう事です。わたしたちは目の前の出来事に99パーセント左右されています。ですから、エルサレムの大神殿を見た時の弟子たちがそうでした。その巨大さ、荘厳さに度肝を抜かれ絶賛しました。目の前には人間が造ったとも思えない巨大な建造物がそびえ立っていたのですから当然でしょう。しかし、イエス様は聖書信仰に立って、人間が造ったバベルの塔のようなものや、人間の集団国家や団体などの脆さ、その離散の繰り返しを知っていました。神以外の基盤は砂の城に似ていて、実に脆いのです。ですが、わたしたちは、なかなか「わたしの思いは、あなたたちの思いと異なる」(イザヤ55:8)ということを理解しにくく、目の前の現象に一喜一憂しがちです。ただここで理解すべきは、神の働きには目的があるという事です。イザヤ55:10にあるように、雨も雪も神の目的を達成するために天から降るのです。それは、種に生命力を与え、芽を出させ、成長させ、穀物を実らせ、種まく人を養う目的をもっています。
わたしたちはどうでしょうか。種の状態を見て神の目的である収穫を想像できるでしょうか。小さな芽を見てそれが成長して花を咲かせることが想像できるでしょうか。植物なら可能でしょう。ちなみにわたしが以前の5月に農協で苗を買ったスイカは、6月17日に受粉して、8月になって実りました。受粉から収穫までが43日、苗の時からでは約70日です。これも同じです。小さな苗を見て大きなスイカを想像できるでしょうか。あるいは、その途中で、これはツルと葉ばかりのりの植物で何の役にも立たないとあきらめるでしょうか。スイカならまだしも、実際の人生の出来事に対して、わたしたちの多くは現在のことを考える事しかできません。70日後や700日後は、頭に浮かばないのです。ところが信仰的姿勢は違います。「信仰とは見えない事実を確認することです」(ヘブライ人への手紙11章1節)明治時代の宣教師の書いた本のなかに、その宣教師は、明治時代だけでなく、その後の世代において日本でクリスチャンになる人々のために祈っていると書いてありました。わたしたちはどうでしょうか。わたしたちが既に地上に生きていない時にも主の御言葉の種によって生まれてくる信仰者の成長のために祈っていきたいものです。いまは、葉ばかり、あるいは小さな頼りない双葉であっても、神の働きによって、いつかしっかり実を結んでいくのです。これが楽しみです。
さて、福音書ではどうでしょうか。イエス様の活動範囲はガリラヤ湖周辺でした。群衆が集まった時にはイエス様は、船から少し高い岸にいる人々に話しました。語る人が下にいて丁度音が上に上がっていくところに階段状に人がいるとよく音が聞こえるものです。それはそれとして、イエス様はいつものように例え話で語りました。たとえ話は、聞く人に疑問の心を起こし、発見の喜びを与えたと思われます。結論を教えるわけではないのです。例話から、自分で考えて答えを見つけるわけです。この時の喩話は種まきの喩でした。イエス様は人々が理解しやすい話をしました。その一つが種まきの話です。当時の種蒔きは、広い場所に自由に蒔く方法でしょう。後で耕して種と土を混ぜたようです。日本では、大根などはペットボトル底を押し当ててくぼみを作っておき、そこに4、5粒蒔き、芽が生えてからだんだん間引いていきます。ですが、地面に直接まいたら、鳥に食べられてしまうでしょう。また、蒔いた土地も大切です。特にイスラエルでは岩だらけの土地も少なくありません。そこでは芽を出しても根を張れないので日照りで枯れてしまいます。これは信仰の種を言っていることが明らかです。鳥が来て食べるとは、信仰を持っても、この世の誘惑にさらわれてしまうわけです。日照りとは様々な試練でしょう。これに耐えられない。茨の間の種というのは、この世の心配や願望が信仰以上に強くなって、信仰を弱らせてしまうわけです。それは実を結びません。ある聖書学者は書いています。「種まきのたとえは、伝道の大部分が失敗なのだということを示している。」神の言葉を受け入れる人は少ない。しかし、良い土地に落ちた種は芽を出し葉を出し成長し、花を咲かせ実を結んでいきます。それはまさに、イザヤ書に書かれている「神の思いは人間の思いを越えている」ということです。わたしたちには、なぜ、ある種が鳥に食べられたり、枯れたり、日陰で弱ったりするのか、何故神がそれを容認するのかがわかりません。ところが、困難があっても、神の種は、100倍、60倍、30倍にはなるのです。イエス様のこの話を聞いているという事自体が、実は良い畑ではないでしょうか。それをイエス様は言いたいのだと思います。イエス様に礼拝を通して結びついていること、そしてイエス様の教えを悟ることそれは成長し実を結ぶことです。
これこそ福音の実だと思います。ガラテヤ書を見ますと、パウロは信仰の実りを語っています。それらの実は、「愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」(ガラテヤ書5:22以下)だと言います。これはわたしたちが神の恵みによって、愛の人喜びの人、平和の人に成長しているという事です。
ただこの成長は誤解も生みます。人間に注目するからです。パウロも教会の信徒の成長に心を砕きました。なかなか信仰が成長しない。それは人間的な結果だけを見ていたりするからです。パウロの時代にはアポロという宣教者もいました。とくにコリント教会ではアポロが活躍していたようです。アポロは使徒言行録(18:24)によれば、当時の学問の中心地であったアレクサンドリア出身で雄弁家であったそうです。また、ものすごく熱意のある人だったようです。ただし、コリントの人々はパウロとアポロを人間的に比べてみて値踏みしていました。つまり人間的な結果だけを見ていたのです。そこでパウロは、第一コリント3:4以下で、植物の喩をもちいて、パウロの働きとアポロの働きを説明しています。アポロもパウロも天から神が与える雨と同じで、信徒の成長の糧だと言うのです。パウロは信仰を植え、アポロは水を注ぐが、実は神が成長させてくださる。だから、人間中心に考えてはいけない。「大切なのは成長させてくださる神です。」(第一コリント3:7)そして、わたしたちは、鳥の害、日照りの害、茨の害があったとしても、将来必ず100倍、60倍、30倍の収穫をあげる「良い畑なのだ」とパウロは宣言しています。罪人であっても、あなたは聖なる者とされたと宣言してくださるのと同じです。福音です。イエス様もまさにこの点を強調しています。人生には、鳥の害、日照りの害、茨の影響があり、これは努力で避けられるものではない。悩むことはない。むしろ、成長させてくださる神を信じなさい。「神の国は実にあなたがたの間にあるのだ。」(ルカ17:21)蒔いても蒔いても、鳥がさらっていくような時にも、信じて蒔き続けなさい。日照りが続き、試練が続き力尽きそうになるような時にも信じ続けなさい。この世の茨が茂っていく先が見えないような時にも見えないものを信じる信仰で進みなさい。あなたは心配してはいけない、あなたと共にわたしはいる。わたしはあなたに喜びをもたらすと約束されているのです。詩編にこう書いてあります「涙と共に種を蒔く人は、喜びの歌と共に刈り入れる。」(詩編126:5)それはまさにイザヤ書55:11の「神の言葉は必ず約束を果たす」という預言の成就です。これを信じましょう。